第8章 他人の目

 外で会うことが、特別ではなくなってきた。


 時間の制限はあるけれど、場所の選択肢は増えた。公園、駅前、少し離れた商店街。どこも、以前と変わらないはずの場所だ。変わったのは、そこを一緒に歩く相手の立ち位置だった。


 昼過ぎ、久方ぶりのキャンパスで人通りの多い道を歩いていると、彼女がふと足を緩めた。


「人、こんなに多かったっけ」


「昼だからかな」


「そっか」


 それだけ言って、また歩き出す。人混みを避けるように、自然に距離を詰めてくる。その動きは、昔と同じだった。肘が触れるか触れないか、ぎりぎりの距離。


 ただ、今度は触れなかった。


 前なら、気にしなかったはずの距離だ。


 交差点で信号待ちをしていると、向かい側から視線を感じた。一人の女性が、こちらを見ている。気のせいだと思って視線を外したが、信号が変わるまで、その視線は消えなかった。


 渡り終えてから、彼女が言った。


「見られてた?」


「……たぶん」


「知り合い?」


「違うと思う」


「そっか」


 彼女はそれ以上、気にしなかった。気にしない、という選択をしたように見えた。


 歩き疲れて、大学近くのカフェに入る。窓際の席に座ると、店内のざわめきが少しだけ遠くなる。彼女はメニューを眺めてから、顔を上げた。


「前、ここ来たよね」


「だいぶ前だけどね」


「何頼んでたっけ」


「忘れたけど、甘いやつでしょ」


「私?」


「たぶんね」


 彼女は小さく笑った。


「たぶん、か」


 注文を済ませて、コーヒーが来る。彼女は一口飲んで、顔をしかめた。


「やっぱ苦い」


「ブラックのまま飲むから」


「あなたの真似してみたんだけどね」


 そう言いながら、砂糖を入れる。その手つきは、迷いがなかった。前と同じ量、前と同じ順番。


 それを見て、胸の奥がざわついた。


 同じ、という事実が、安心よりも先に不安を連れてくるようになっていた。


 隣の席で、大学生らしい二人組が話している。


「最近さ、ちょっと前に病気で死んじまった地元の同級生が、人格復元で生き返った?らしいんだよな」


「え、マジ? あれってすげー高いんだろ?」


「らしいな。ただ、それで家族とかが戻ってくるなら全然俺は払うけど、お前はどう思う?」


「俺は無理かな。だってそれ、なんで言ったら良いかわからないけど、同じじゃないじゃん」


「それもそうだよなー」


 意識を逸らせば、聞こえなくなる距離ではあった。だが、今だけは、遠ざけたざわめきが恋しくなる。


 彼女は、聞いていないふりをしていた。カップを持つ指が、わずかに止まった気がしたけれど、何も言わない。


 話題はすぐに別のものに移った。笑い声が上がる。


 店を出ると、彼女が息を吐いた。


「……さっきの」


「聞こえてた?」


「少し」


「気にしないでいいよ」


「気にしてない」


 即答だった。その早さが、少しだけ引っかかった。


 歩きながら、彼女が言う。


「外ってさ」


「うん」


「いろんな人がいるんだね」


「今さら」


「でも、前より、よく分かる」


 前より、という言葉に、意味を探してしまう。


「どういう意味?」


「……なんとなく」


 それ以上、言葉は続かなかった。


 施設に戻る時間が近づく。角を曲がる前、彼女が立ち止まった。


「ねえ」


「ん」


「もしさ」


 一瞬、言葉を探すみたいに、視線が揺れる。


「誰かに、私のこと聞かれたら」


「聞かれたら?」


「どう答える?」


 答えは、用意していなかった。


「……そのまま答える」


「そのまま?」


「一緒にいる人だって」


 彼女は少し考えてから、頷いた。


「そっか」


 それだけだった。納得したのか、保留したのかは分からない。


 施設の前に着く。職員が少し離れたところで待っている。


「今日は、楽しかった」


 彼女が言う。


「俺も」


 それは、嘘じゃなかった。


 別れ際、彼女が一歩だけ近づいて、立ち止まった。触れそうで、触れない距離。


「ねえ」


「ん」


「前みたいに、手、繋いだら変かな」


 心臓が、一拍だけ早くなった。


 周りを見る。誰もこちらを見ていない。見ていたとしても、関係ないはずだった。


「……どうだろうな」


 正直な答えだった。


 彼女は、少しだけ笑った。


「だよね」


 それで終わった。手は伸びなかった。


 施設のドアが閉まる。彼女は中へ戻っていく。


 外に残された僕は、その背中を見送りながら思った。


 他人の目がある場所では、

 何が正しいのか、分からなくなる。


 彼女が「そこにいる」ことと、

 彼女を「そこに置いていい」のかは、

 別の問題だ。


 その境目が、少しずつ近づいているのを感じていた。


 外に出られるようになった分だけ、

 選ばなければならない場面も、増えていく。


 まだ、答えは出ていなかった。

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