第7章 外側

 面会の期間が、一区切りついた。


 正式な呼び方は知らない。ただ、職員から「次の段階に進めます」と告げられた。復元後の経過は安定していること、対話に問題がないこと、情緒の大きな揺れが見られないこと。いくつかの条件を満たした結果らしい。


「施設の外での接触が可能になります」


 そう言われても、実感はなかった。外、という言葉が、どこか抽象的だった。


 最初の外出は、短時間に限定され、場所も指定されている。施設から徒歩圏内、混雑しない時間帯。細かい注意事項を聞き流しながら、僕は彼女の横顔を見ていた。


「外、出られるんだって」


「僕もさっき聞いたよ」


「どう?」


「どうって……」


 彼女は少し考えてから、肩をすくめた。


「私はちょっと楽しみ」


 その言い方は、前と同じだった。前と、同じように聞こえた。


 施設の自動ドアを抜けると、空気が違った。匂いがある。音がある。通り過ぎる人の視線が、確かに存在している。


 彼女は一歩外に出て、足元を見た。


「なんだか、普通だね」


「何が」


「外」


「そりゃね」


 それだけ言って、歩き出す。歩幅も、癖も、記憶の中と変わらない。並んで歩く距離も、自然に決まった。


 近くの公園まで行くことにした。ベンチに座って、缶コーヒーを一本ずつ開ける。彼女がこちらの手に持つラベルを眺めてくるから、渡してみた。


「苦い」


「だろ」


 少ししてから彼女は缶に口をつけてそう言った。


「でも、意外と嫌いじゃない」


 言葉に続けてもう一口飲む。言い切り方が、少しだけ違った。以前なら、理由を続けて飲むのはやめていたはずだ。今日は、そこで終わる。


 子どもが走り回っている。犬を連れた人が通る。遠くで、誰かが笑っている。


「ねえ」


「ん?」


「ここ、来たことあったよね」


 不意に言われて、言葉に詰まった。


「……あったね」


「どんなだった?」


 聞き方は、軽い。思い出話をねだる調子だった。


「ベンチが固かった」


「それだけ?」


「それだけ」


 彼女は笑った。短く、乾いた笑いだった。


「相変わらずだね」


 相変わらず、という言葉が、どこにかかっているのか分からなかった。僕にか、記憶にか、場面にか。


 しばらくして、彼女が言った。


「外に出るとさ」


「うん」


「私、ちゃんとここに“いる”感じする」


 言い方は曖昧だった。でも、曖昧なままで受け取れる言葉だった。


「施設にいるときは?」


「……説明しにくい」


 それ以上は続かなかった。

 続けない、という選択をしたように見えた。



---



 あれから時間になり、彼女を施設へと送った。先ほど気が付いたが、どうやら施設の職員はこちらと距離を保ってついてきていたらしい。


 監視というほど露骨ではない。ただ、管理されているという事実だけが、背中に残る。


 一人でいる帰り道、少し胸に掛かるものを感じながら、物思いに耽る。


 外で会えたことは、前進だったのか。

 それとも、違いをはっきりさせただけだったのか。



---



 数日後、再び外で会った。


 今度は少し遠くまで歩いた。カフェの前を通り過ぎ、昔よく行った店の前で足を止める。


「ここ、まだあるんだ」


「なんでか中々潰れない」


「それ失礼。だけど確かに、しぶといね」


 彼女は店の中を覗き込んで、首を傾げた。


「ね、せっかくだし入らない?」


「いや、今日はやめとこう」


「そっか」


 理由を聞かれなかった。聞かれないことに、ほっとして、同時に寂しくなった。


 歩きながら、彼女が言う。


「ねえ」


「ん」


「私たち、今って、どういう関係なんだろ」


 足が、わずかに止まりかけた。


「どう、って」


「前と同じ、ではないよね」


 否定できなかった。肯定もできなかった。


「……分からない」


 正直に答えると、彼女は頷いた。


「だよね」


 それだけだった。納得した様子でも、諦めた様子でもない。ただ、受け取った顔だった。


 信号待ちで立ち止まる。車の音が近い。


「でもさ」


 彼女が続ける。


「一緒に歩いてるの、やっぱり私は嫌じゃない」


「僕も」


 それは、即答だった。


 信号が変わる。横断歩道を渡る。人の流れに混ざる。


 外で会うようになって、分かったことがある。


 彼女は、ちゃんとそこにいる。

 それは確かだ。


 でも、同時に分かった。


 以前の「当たり前」は、戻らない。


 戻らないまま、別の形で続いていく。

 それを続きと呼ぶのか、別物と呼ぶのかは、まだ決められなかった。


 施設の建物が見えてきて、彼女が言った。


「また、来ようね」


「……うん」


 そう答えながら、胸の奥で、静かな緊張が続いているのを感じていた。


 外に出られるようになった。

 それだけで、選択は近づいていた。


 気づかないふりをしても、距離は縮まらない。


 むしろ、はっきりと見えるようになっていただけだった。

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