第三幕 翡翠(ひすい)の如き手

 その日から、『白仙楼』の地下室は阿鼻叫喚の地獄と化した。


「引くな! 熱さを痛みとして感じるな! 『陽』のエネルギーとして飲み込め!」

「あ、あああああッ!」


 煮えたぎる黄金の薬湯。その中に、メイリンは両手を突き刺していた。

 常人なら一秒で皮膚がただれ落ちる高熱だ。

 だが、ラオが背後からメイリンの背中に掌を当て、膨大な『気』を送り込んでいるおかげで、かろうじて肉体の崩壊は防がれていた。

 破壊と再生。

 薬湯の成分が皮膚を焼き、ラオの気がそれを即座に修復する。

 その無限のサイクルの中で、メイリンの意識は何度も飛びそうになった。


「母さんは……これに耐えてたのね……」


 薄れゆく意識の中で、メイリンは歯を食いしばる。

 ただの料理人だと思っていた母の背中が、今は巨大な武神のように見えた。

 逃げるわけにはいかない。

 彼女は血の滲む唇で呼吸を整え、さらに深く、手首までを薬湯に沈めた。


 一日目、メイリンの手は赤黒く腫れ上がり、見るも無惨な姿になった。

 二日目、腫れが引き、古い皮膚がボロボロと剥がれ落ち始めた。

 そして、運命の三日目の朝。


「……完成だ」


 ラオの呟きと共に、メイリンは薬湯からゆっくりと手を引き抜いた。

 そこに現れたのは、かつてのあかぎれだらけの手ではなかった。

 不純物がすべて抜け落ち、筋肉の繊維一本一本までが薬効で満たされた、透き通るような白い手。


 いや、白というよりは、淡く発光する『翡翠ひすい』のような神々しさがあった。


「これが……私の、手?」

「ああ。『味手みしゅ』の開眼だ。だが、見惚れている暇はねえぞ」


 ラオが地下室の階段を見上げた。

 上から、ドカドカという足音と、下品な笑い声が聞こえてくる。

 約束の正午だ。


 ◇


 一階の店舗には、異様な緊張感が張り詰めていた。

 中央の円卓にふんぞり返って座るのは、派手な錦の服を着た小太りの老人、地主のチンだ。

 その背後には、権利書を奪うための強面こわもてたちと、店の取り壊し業者がハンマーを持って待機している。


「カッカッカ! 時間だぞ、娘ッ! どうせ無理だったんだろう? さっさと店を明け渡せ!」


 厨房の暖簾が、静かに持ち上がった。

 現れたのは、純白の調理服に身を包んだメイリンだ。

 その顔には、三日前までの自信なさげな弱さは微塵もない。

 死線を潜り抜けた修羅だけが持つ、静謐な瞳。

 その後ろに、腕組みをしたラオが仁王立ちで控える。


「お待たせいたしました、チン様」


「はんッ! いっちょ前に料理人の顔をしおって。……で、出すんじゃろ? あの女将の『幻のスープ』をのぉ!」


 メイリンは無言で一礼すると、厨房の火を入れた。

 ゴオオオオッ!

 最大火力の炎が中華鍋を包む。

 スープのベースは既に仕込んである。あとは、具材を踊らせ、味を調えるだけだ。

 だが、チン老人は鼻で笑った。


「無駄じゃ無駄じゃ! レシピなど何百回真似しようと、あの味には……」


 その言葉が止まった。

 メイリンが、煮えたぎるスープの中に、お玉ではなく、自身の『手』をかざしたからだ。


「……まさか」


 チン老人が目を見開く。

 メイリンは深く息を吸い込むと、躊躇なくその白く輝く手を、沸騰する鍋の中へと突き入れた。


 ジュワアアアアアッ!

 肉が焼ける音ではない。

 まるで熱した鋼を水に入れたような、清涼な音が響き渡る。

 メイリンの手がスープを撹拌するたびに、厨房内にとてつもない香気が爆発した。

 ラオがニヤリと笑う。


「見ろ。あれが、全ての食材の魂を目覚めさせる『神の御手』だ」


 黄金色のスープが渦を巻き、龍のように昇り立つ。

 メイリンは熱さを微塵も感じさせない涼しい顔で、鍋から手を引き抜くと、その雫をピチャリと丼へ落とした。

 仕上げの調味料は、彼女の指先から滴る『生命のエキス』だ。


「お待たせいたしました。『白仙楼』特製、極上薬膳湯です」


 メイリンの手によって運ばれた丼が、チン老人の前に置かれた。

 それは、ただのスープではなかった。

 器の中で光り輝く、液状の宝石だった。



 チン老人は、震える手でレンゲを持ち上げた。

 目の前の丼から立ち昇る湯気が、老人の顔を撫でる。

 その香りだけで、彼の喉がゴクリと鳴った。

 疑念と期待。相反する感情を飲み込むように、彼はスープを口へと運んだ。


 ズズッ……。


 静寂。

 店内の誰もが息を呑んで見守る中、チン老人の動きが止まった。

 カタン。

 レンゲが丼の中に落ちる音が、やけに大きく響いた。


「……あ、あぁ……」


 老人の口から、細い吐息が漏れた。

 次の瞬間だ。


 カッッッ!!

 老人の目が見開かれ、その瞳孔が極限まで開いた。


「な、なんじゃこれはぁぁぁッ!?」


 老人の絶叫が店を揺らした。

 彼の脳裏に、爆発的なイメージが奔流となって押し寄せていた。

 枯れ果てた荒野に、一斉に花が咲き乱れる幻影。

 五臓六腑を駆け巡る熱き血潮。

 それは単なる味覚ではない。老いて冷え切った彼の肉体に、強制的に『若さ』という名の火を灯す、生命の奔流だった。


「熱い! 身体が芯から熱いぞ! まるで青春時代の太陽の下を駆けているようだ!」


 チン老人はガバッと立ち上がり、丼を両手で掴むと、行儀も忘れて直接スープを煽った。

 美味い。美味すぎる。

 複雑に絡み合った薬膳の苦味と甘味を、少女の指先から溶け出した『慈愛』という名の隠し味が、一つの完璧な調和へと導いている。


「こ、この味は……死んだ女将の……いや、それ以上じゃ!」


 老人の目から涙が溢れ出し、皺だらけの頬を伝う。


「わしは間違っておった……。この味は、レシピなどという紙切れで再現できるものではなかったんじゃ。命を削り、痛みを乗り越えた者だけが辿り着ける、魂の味だったんじゃあ!」


 ドサッ。

 チン老人はその場に崩れ落ちるように座り込み、空になった丼を抱きしめて号泣した。

 連れてきた強面たちも、その光景に圧倒され、手に持っていたハンマーを取り落とした。


「……勝負あり、だな」


 ラオが腕組みを解き、ニヤリと笑う。

 メイリンは大きく息を吐き出すと、深いお辞儀をした。


「ありがとうございました、チン様」


 その声は凛として、かつての弱気な少女のものは微塵もなかった。


 ◇


 騒動は去った。

 チン老人は「この店は街の宝だ!」と宣言し、権利書を破り捨てて帰っていった。

 夕暮れの厨房。

 ラオは背中の布包みを背負い直し、出口へと向かっていた。


「行っちゃうんですか、ラオさん」


 メイリンが背中に声をかける。

 ラオは振り返らずに手を振った。


「ああ。俺の旅の目的は『味魔皇』を倒すことだ。ここに長居はできない」


「……そうですか」


「だが、安心しろ。お前のその『手』がある限り、この店はもう潰れないさ」


 ラオが振り返り、メイリンの手を指差す。

 かつてはあかぎれだらけだったその手は、今は白く、透き通るように美しく輝いている。

 だが、それはもう、普通の少女の手ではない。

 熱さを感じず、男の温もりも知ることのできない、料理のためだけに作り変えられた『職人の手』だ。

 その代償の重さを、二人は無言で共有した。


「ラオさん」


 メイリンは自分の両手を胸の前で握りしめ、微笑んだ。

 その笑顔は、亡き母のように強く、美しかった。


「私、この手でこの店を守り抜きます。……そしていつか、ラオさんをもっと驚かせるような『究極の一皿』を作って待ってますから!」


 ラオは目を見開き、そして愉快そうに喉を鳴らして笑った。


「アッハッハッ! 大きく出たな、白き手の娘! ……いいぜ、楽しみにしててやる!」


 ラオは荒野へと続く道を歩き出す。

 その背中を見送るメイリンの手は、夕陽を浴びて、翡翠のように美しく輝いていた。

 それは、彼女が料理人として生きていく覚悟の証。

 彼女の 『手』に宿る物語は、まだ始まったばかりなのだ。


【完】

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食の覇王と白い手の娘 カクナ ノゾム @sieidou1

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