第二幕 天才の敗北と、地下室の秘儀
三日後、地主のチン老人が来る。
ラオはその夜、厨房に籠り続けていた。
「……クソッ、なぜだ!」
ガシャァン!
ラオが試作品のスープが入った中華鍋を五徳に叩きつける。
メイリンは怯えながら、散らばったスープを拭いた。
ラオの料理は完璧だった。先代のレシピを完全再現し、素材も最高級のものを使った。
それなのに、メイリンの記憶の中にある「五臓六腑を震わせる熱」だけが、どうしても再現できないのだ。
「俺は特級厨師だぞ……。味が分析できないなんてことがあってたまるか」
ラオが頭を抱える。
論理では説明がつかない。まるで魔法だ。
ふと、ラオは顔を上げ、メイリンを睨むように見た。
「おい、メイリン。お前の母親のことで何か覚えていることは?」
「えっ? お母さんのこと……ですか?」
思い出すのは真っ白な手。
料理人とは思えない白い色をしていた母親の手だった。
「白い手……か。なぁ、メイリン。お前の母親は本当にただの料理人だったのか?」
「腕のいい料理人だったとは、思いますけど……」
「俺が見る限り、この厨房の使い込まれ方は尋常じゃねえ。鍋の摩耗の仕方、床の踏み込み跡……。あれはただの調理の動作じゃねえ。武術の達人が『型』を刻んだ痕跡だ」
ラオの指摘に、メイリンはハッとして口元を押さえた。
「そういえば……母さん、夜中に厨房で変な踊りをしていたことがありました。ゆっくりと手を動かして、まるで空気を撫でるような……」
「『
「……そういえば微かに」
「地下からだな。店の地下に何かあるのか?」
メイリンはラオを店の奥にある、普段は開けない重い鉄扉の前へと案内した。
鍵を開け、地下へと続く階段を降りる。
だが、そこには何もなかった。
がらんとした地下室が寒々と拡がっているだけだ。
「何も……ないですよ、ここには」
「いや、何かがある……」
ラオは自らの嗅覚を頼りに、壁に近づいてゆく。
「ここだ! この壁の向こう!」
ドォン!!
ラオの震脚が地下室を震わせる。
その衝撃で漆喰の壁がボロボロと崩れ落ちその向こうに、隠されいた空間が現れた。
湿った空気と共に、濃厚な漢方とスパイスの香りが二人の鼻孔を突き刺す。
「こ、これは……」
ラオが息を呑む。
地下室に隠されていたそれは、食材庫ではなかった。
壁一面に見たこともない乾燥薬草が吊るされ、中央には巨大なカメが鎮座している。
そして祭壇には、一冊の古びた巻物が祀られていた。
『秘伝・
ラオは震える手で巻物を開き、その内容を目で追う。
数秒後、彼は天を仰いで、乾いた笑いを漏らした。
「ははっ……そうか、そういうことかよ。あいつが探し求めていた幻の奥義の一つは、こんなところにあったのか」
「ラオさん、その巻物は?」
「『
「それじゃ母さんがそれの――」
「拳法の奥義に毒手、薬手というのがある。これはそれを料理に応用したもの。既に失伝されて久しいと聞いていたが――」
ラオは悔しそうに唇を噛んだ。
「もっとも、俺には使えないんだがな」
「えっ? ラオさんなら、すぐに覚えられるんじゃ……」
「無理だ。ここを見ろ」
ラオが指差した行には、『女人禁制』ならぬ『男子禁制』の文字があった。
「この奥義は、薬草の強烈な『陽』の気を体に取り込む。男の身体では『陽』が強すぎて、全身の血が沸騰して死ぬ。……『陰』の気を持つ女性にしか継承できない技なんだよ」
ラオは巻物を閉じ、真剣な眼差しでメイリンに向き直った。
「メイリン。お前の母さんは、とんでもない武術家であり、この『味手』の継承者だったんだ。……その白い手は、薬草の毒気を制御しきった達人の証だ」
「私が……継承者?」
「ああ。だが、時間は三日しかない。本来なら数年かける修行を、三日で叩き込むことになる」
ラオは巨大なカメの蓋を開けた。
中には、黄金色に輝くドロリとした液体が満たされている。
熱い。湯気だけで火傷しそうだ。
「死ぬほど痛いぞ。それに、失敗すれば手は使い物にならなくなる。……それでもやるか?」
メイリンは自分のボロボロの手を見た。
そして、亡き母の優しい笑顔を思い出す。
母が命を削って守ってきた味。
ここで逃げれば、店は終わりだ。
「やります」
メイリンは顔を上げた。その瞳には、ラオも驚くほどの強い光が宿っていた。
「私の体には、母さんの血が流れてますから。……きっと、耐えられます!」
「……いい度胸だ。なら、今からお前は俺の『弟子』じゃない。俺が目指す料理の『パートナー』だ」
ラオはニヤリと笑い、地下室の松明に火を灯した。
「始めるぞ、メイリン。伝説の復活だ!」
「はいっ!」
ラオの言葉にメイリンは唇を引き締め、大きく頷いたのだった。
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