第3話

境界線

佐藤は、その日、診察室に入った瞬間から分かっていた。

——今日は、危ない。

理由はない。

ただ、胸の奥がざわついている。

言葉にできない衝動が、体の内側を満たしている。

椅子に座ると、足がわずかに震えた。

「……調子は、どうですか」

桐島の声は、いつも通りだった。

低くも高くもなく、感情を含みすぎない声。

それが、今日はひどく遠く感じられた。

「先生」

佐藤は、答えにならない呼びかけをした。

「はい」

「……先生は、私のこと、どう思ってますか」

診察室の空気が、目に見えない形で張り詰める。

その質問が、どれほど危険か。

佐藤自身が、一番よく分かっていた。

これは治療の質問ではない。

症状の確認でもない。

——確認したいのは、自分の居場所だ。

桐島は、すぐには答えなかった。

その沈黙が、佐藤の不安を煽る。

「……やっぱり、変な質問ですよね」

言いながら、喉が締めつけられる。

「私、先生の前だと……自分がここにいるって、分かるんです」

言ってしまった、と佐藤は思った。

一度口に出した言葉は、戻らない。

「家にいると、何も分からなくなります。

息をしてるのかどうかも、曖昧で……」

声が震え始める。

「でも、ここに来ると……先生が名前を呼んでくれると……」

涙が落ちた。

「……私、先生に会うために、生きてるみたいで」

それは、境界線を踏み越えた言葉だった。

精神科医として、最も警戒すべき兆候。

患者が、医師を「生の支点」にし始めた瞬間。

桐島は、それを正確に理解していた。

理解しているからこそ、胸が痛んだ。

「佐藤さん」

名前を呼ぶ声が、いつもより少しだけ低くなる。

「それは、とても苦しい状態です」

否定しない。

だが、肯定もしない。

その中間の言葉。

「先生……」

「私は、佐藤さんの人生の中心には、なれません」

その言葉が落ちた瞬間、佐藤の世界が歪んだ。

頭では分かっている。

言われるべき言葉だ。

それでも、心が追いつかない。

「……じゃあ、私は……」

声が、ほとんど音にならない。

「私は、どこにいればいいんですか」

佐藤は、泣いていなかった。

涙すら出ないほど、内側が凍りついていた。

桐島は、拳を軽く握った。

——ここだ。

ここが、医師としての正念場だ。

距離を取るべきだ。

依存を断ち切る言葉を、選ぶべきだ。

それが、正しい。

それでも桐島は、少しだけ前に身を乗り出した。

「……今は、分からなくてもいいです」

その一言で、佐藤の呼吸が乱れる。

「分からないまま、生きるのは……つらいですよね」

佐藤の肩が、かすかに揺れた。

「でも、私は……佐藤さんが、私以外の場所で、居場所を見つける力があると、信じています」

それは、希望でもあり、突き放しでもあった。

佐藤は、必死に首を横に振る。

「そんなの……今は、無理です」

その言葉は、懇願に近かった。

「先生、私……先生に嫌われたら、もう……」

桐島は、その続きを言わせなかった。

「嫌いではありません」

はっきりと、そう言った。

それは、治療としては危うい言葉だった。

だが、人として、嘘はつけなかった。

「佐藤さんを、一人の人として、大切だと思っています」

その瞬間、佐藤の中で何かが決壊した。

泣き声が、抑えきれずに漏れる。

「……ずるいです……」

「はい」

「そんな言い方……されたら……」

言葉にならない感情が、嗚咽になる。

桐島は、手を伸ばさなかった。

触れなかった。

触れないことが、最後の境界線だと知っていたからだ。

それでも、視線は逸らさなかった。

「今日は、ここまでにしましょう」

佐藤は、頷けなかった。

だが、立ち上がった。

扉の前で、一度だけ振り返る。

「先生……私、また来てもいいですか」

桐島は、深く息を吸った。

「……はい」

その返事が、正しいかどうか。

彼自身にも、もう分からなかった。

扉が閉まる。

診察室に、一人残された桐島は、椅子に深く沈み込んだ。

——また、越えなかった。

——だが、越えさせてもしまった。

その曖昧さこそが、

彼を「精神科医として失格」にしている理由だった。

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駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966

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