駄目な精神科医

真田直樹

第2話

第3章

診察室の温度

佐藤は、病院を出たあと、しばらく動けなかった。

冬でも夏でもない、曖昧な季節の風が頬に当たる。

それなのに、体の内側だけが熱を持っていた。

——おかしい。

何か劇的なことを言われたわけではない。

励まされたわけでも、希望を与えられたわけでもない。

それでも胸の奥が、ざわついている。

「……名前、呼ばれただけなのに」

誰にも聞こえないように、そう呟く。

それだけで涙が出そうになる自分が、ひどく情けなかった。

佐藤は、これまで何人もの医師に会ってきた。

優しい人もいた。

冷静な人もいた。

正しいことだけを言う人もいた。

けれど、桐島は違った。

頼りなくて、

言葉は曖昧で、

「分からない」を平気で口にする。

医師としては、不安になるはずの要素ばかりなのに。

——なのに。

「……怖く、なかった」

その理由を考えようとすると、胸が苦しくなる。

佐藤は、幼い頃から、説明されることに慣れていた。

「あなたは、こういう性格だから」

「これは、こういう病気だから」

「仕方がないことだから」

説明されるたびに、自分が少しずつ消えていく感覚があった。

桐島は、説明しなかった。

病名を告げず、

未来を約束せず、

「大丈夫」とも言わなかった。

ただ、そこにいた。

それが、たまらなく危険だと、佐藤はどこかで分かっていた。

________________________________________

その夜、佐藤は眠れなかった。

布団に入ると、診察室の匂いが蘇る。

消毒液と、古い木製の机の匂い。

そして、あの椅子。

桐島が座っていた位置。

少し猫背で、肘をつく癖。

——どうして、そんなことまで覚えているんだろう。

自分のことなのに、覚えていないことは山ほどある。

昨日何を食べたかも、

先週どんな気分だったかも、曖昧なのに。

それなのに、

あの人の表情だけは、妙に鮮明だった。

「……駄目だ」

佐藤は、布団を強く握った。

これは、良くない感情だ。

分かっている。

医師は、患者を救う側。

患者は、依存してはいけない側。

頭では理解しているのに、感情が追いつかない。

——もし、次に行ったとき、名前を呼ばれなかったら?

その想像だけで、心臓が縮む。

——もし、あの人がいなくなったら?

胸の奥に、穴が開く感覚。

「……こんなの、治療じゃない」

そう思うのに、次の予約日を確認している自分がいる。

佐藤は、スマートフォンの画面を閉じ、目を閉じた。

暗闇の中で、桐島の声が再生される。

「来たいと思ったら、来てください」

その言葉は、命令でも許可でもなかった。

だからこそ、逃げ場がなかった。

________________________________________

次の診察日。

佐藤は、いつもより早く病院に着いた。

待合室の椅子に座りながら、周囲を見回す。

他の患者たちの顔。

誰もが、何かを抱えている顔。

——この人たちも、あの人に会うのだろうか。

胸に、わずかな独占欲のようなものが芽生えた瞬間、佐藤は自分に嫌悪した。

「最低だ……」

それでも、名前が呼ばれた瞬間、全てがどうでもよくなった。

「佐藤さん」

その声を聞いただけで、体の力が抜ける。

——ああ、また呼ばれた。

それだけで、今日一日は生きていける気がした。

診察室に入ると、桐島はいつもと変わらない顔で頷いた。

「こんにちは」

その何気ない挨拶が、胸を締めつける。

佐藤は、堪えきれずに言った。

「先生……私、先生に会えなくなったら、多分……」

言葉の続きを、口に出す前に、喉が詰まった。

桐島は、すぐには答えなかった。

その沈黙が、優しさなのか、残酷さなのか、佐藤には分からない。

ただ一つだけ確かなのは——

この感情は、

回復の兆しなのか、

それとも、深い依存への入り口なのか。

佐藤自身にも、もう判別がつかなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る