〇大久保公園
大久保公園は、夜になると昼とは別の顔を見せる。
街灯の下に集まる影は、互いに干渉しない距離を保ちながら、値踏みとある種の諦めを同時に孕んで立っている。
私は、その中に身を置いた。娘が立っていた場所を、私は知らない。似た場所を選んだそれで十分だと思った。
日記にあった特徴を、頭の中でなぞる。
――身なりがいい。
――顔に、左の頬の傷。
――話を、遮らずに聞く。
何人もの男が視線を投げてくる。
私は応えない。
探しているのは、客ではない。
しばらくして、少し離れたベンチに座る男に気づいた。
コートは手入れが行き届いていて、靴も汚れていない。
この場所では、浮いている。
近づくと、街灯の光が男の顔を切り取った。
左の頬に、確かに傷があった。古いものだ。
私は一瞬、息を止めた。
偶然。
そう言い聞かせたが、足は止まらなかった。
「寒くないですか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
男は少しだけ目を見開き、それから穏やかに笑った。
「大丈夫。慣れてるから」
その言い方が、日記の行間と重なる。
私は隣に座った。距離は、逃げられる程度に保つ。
「ここ、よく来るんですか」
「たまに。仕事帰りに」
嘘かもしれない。
でも、否定する理由はなかった。
私は、自分の話をした。
大げさではなく、悲劇でもなく、ただの愚痴のように。
うまくいかないこと。疲れていること。帰る場所が、少し遠いこと。
男は、遮らなかった。
相槌は最小限で、目だけがこちらを向いている。
「大変でしたね」
その一言で、胸の奥がひどく静かになった。
娘の日記に、何度も出てきた言葉だった。
私は、決めた。
「……少し、歩きませんか」
誘ったのは、私だ。
選んだのも、私だ。
男は立ち上がり、私の歩幅に合わせた。
触れない距離。
それでも、逃げ道はもうなかった。
私は、コートの内側で、小さく折り畳んだ紙を指でなぞった。
人の形をしたそれの頭部にあたる部分には、既に「罪」と記されている。
その文字を宛てた相手と並んで歩く。
ここまでくれば、もう後は流れに任せるだけでいい。
エレベーターの中は、妙に静かだった。機械音だけが、規則正しく耳に触れる。何階かは、覚えていない。男が押したボタンの赤い光を、私はただ見ていた。
「無理、しなくていいですから」
そう言われた瞬間、胸の奥で何かがひっくり返った。
それは優しさだったのか、形式だったのか。
区別は、もう意味を持たなかった。
「大丈夫です」
私はそう答えた。
娘の日記に書かれていた「居場所がない」という言葉が、ふと浮かぶ。
男がコートを脱ぐ。
左の頬の傷が、照明の下ではっきり見えた。
私は、バッグを床に置いた。中に入っている紙を、枕の下に忍ばせる。
人の形をした、小さな紙。
男がこちらを見る。娘が求めたであろう、「優しさ」を湛えた目だった。
「……何か、飲みますか」
「いいえ、それより……」
短く答えた。
これ以上、間を延ばしたくなかった。
沈黙が落ちる。
その意味を、私は知っている。
この一歩を踏み出せば、
もう「知らなかった」には戻れない。
私は、男の隣に座った。男が肩に手を回してくる。
頭の中で、日記の言葉が反響する。
――優しい。
――分かってくれた。
――特別。
そうかもしれない。少なくとも、私の中の「女」は同じ感想を抱いた。そういった雰囲気を感じつつ、私は身を委ねた。
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