第3話 不倫愛を腐らせる『絶望の芳香』


 サロン『Mage』は、銀座の裏路地にひっそりと佇んでいる。


 看板はない。ドアには、ただ小さな真鍮のプレートに、黒い茨の紋章が刻まれているだけ。


 完全予約制。紹介者がいなければ、この扉を叩くことすら許されない。


 私、宮瀬莉央――いや、今は「Mage」の主人として――はこの店を、三週間前にオープンした。


 内装は、全て黒と銀。


 壁一面の棚には、アンティークのガラス瓶に入った香料たちが並ぶ。琥珀色、深紅、漆黒。まるで魔女の実験室のような、しかし洗練された空間。


 奥の壁には、宝石の原石たちが、まるで鉱物標本のように整然と並べられている。


 そして、店の中央には――黒い大理石のカウンター。


 そこで私は、訪れる人々の「真実」を暴き、「美」を与える。


 今日も、一人の予約が入っている。


 紹介者は、離婚調停で私の弁護を担当してくれた女性弁護士。彼女は私の「作品」の本質を理解し、信頼できる人にだけ、この店の存在を教えてくれる。


 午後二時。


 ドアのベルが鳴った。



 入ってきたのは、三十代半ばと思われる女性だった。


 シャネルのスーツに、カルティエの時計。エルメスのバッグ。外見は完璧に整っている。


 でも――


 私には見えた。


 彼女の目の奥の、絶望と諦め。


 肩に乗った、見えない重荷。


「初めまして。橘弁護士からご紹介いただきました、白川美樹と申します」


 彼女は丁寧に頭を下げた。


「いらっしゃいませ。お掛けください」


 私はカウンター越しの椅子を勧めた。


 白川美樹は座り、周囲を見回した。


「……不思議な空間ですね。まるで、現実とは違う場所に来たような」


「そう感じていただけて、光栄です」


 私は微笑み、彼女の前に小さなグラスを置いた。中には透明な水。


「まず、これを一口。口の中をリセットしてください。香りを正しく感じるために」


 美樹は言われた通りにする。


「白川さん。あなたは、何をお求めですか」


 私の問いに、美樹は俯いた。


「……夫を、取り戻したいんです」


「夫を?」


「はい。結婚十年になりますが、最近、夫が……冷たくて」


 美樹の声が震える。


「夜も、もう一年以上、ありません。話しかけても、生返事ばかり。休日は一人でゴルフか、友人との飲み会。私は――まるで、家政婦のような扱いで」


「浮気は?」


 私の直接的な問いに、美樹は顔を上げた。


「……分かりません。でも、たぶん」


「証拠は?」


「ありません。でも、夫の携帯には常にロックがかかっていて、お風呂にまで持ち込むようになりました。あと、帰りが遅い日が増えて……」


 美樹の目に、涙が滲んだ。


「私、何がいけなかったんでしょう。料理も頑張って、家も綺麗にして、夫の好きなものを覚えて、いつも笑顔でいようとして……」


 ああ。


 私には分かる。


 この人は、「夫を取り戻したい」のではない。


 「自分の価値を、取り戻したい」のだ。


「白川さん」


 私は彼女の目をまっすぐ見た。


「あなたは今、自分が『価値のない女』だと思っていますね」


「……っ」


 美樹の目が見開かれた。


「違います。あなたは十分に美しく、聡明で、価値のある女性です」


「でも、夫は――」


「夫が、あなたの価値を見出せないだけです」


 私は立ち上がり、棚から一つの香料瓶を取った。


「香りというものは、不思議なものです。同じ香りでも、纏う人によって全く違う印象を与える」


 瓶の蓋を開ける。


 甘く、妖艶な香り。イランイラン。


「これは、イランイラン。『花の中の花』という意味を持つ、黄色い花から抽出される精油です」


 美樹が、香りに顔を近づける。


「……いい香り」


「催淫作用があるとされ、古くから『媚薬』として使われてきました。でも――」


 私は瓶を置いた。


「これを、あなたが纏っても、夫は振り向かないでしょう」


「え……」


「なぜなら、あなた自身が、自分を『魅力的な女』だと信じていないから」


 美樹の顔が、蒼白になった。


「香りは、魔法ではありません。香りは――その人の内側にあるものを、引き出し、増幅させるものです」


 私は、彼女の手を取った。


「白川さん。あなたに必要なのは、『夫を振り向かせる香り』ではない。『あなた自身が、自分の価値を取り戻す香り』です」



 私は美樹に、一枚のアンケート用紙を渡した。


「まず、これに答えてください。嘘はいりません。正直に」


 質問は、十項目。


 ――あなたが最も美しいと感じる風景は?

 ――あなたが最も心地よいと感じる時間は?

 ――あなたが忘れていた、夢は?

 ――あなたが本当に欲しいものは?


 美樹は、ペンを握り――そして、動きを止めた。


「……書けません」


「なぜ?」


「分からないんです。私が、何を美しいと思っているのか。何を心地よいと感じるのか。夫のことばかり考えて、自分のことを……」


 美樹の目から、涙が溢れた。


「私、いつから、自分を失ってしまったんでしょう」


 私は、静かに立ち上がった。


「では、今から取り戻しましょう」


 私は、奥の調香室へ美樹を案内した。


 部屋には、何百という香料瓶が並んでいる。


「今から、あなたに様々な香りを嗅いでもらいます。理屈は要りません。心が動いた香り、懐かしいと感じた香り、あるいは――涙が出そうになった香りを、教えてください」


 私は、一つ目の瓶を開けた。


「これは、ネロリ。ビターオレンジの花から抽出される、高貴な香り」


 美樹が鼻を近づけ――そして、小さく首を振った。


「次」


 二つ目。ローズ・オットー。


 三つ目。ジャスミン・サンバック。


 四つ目。ベチバー。


 五つ目――


「あっ」


 美樹が、声を上げた。


「これ……」


「フリージア。白い、小さな花です」


「……母が、好きだった花」


 美樹の目から、また涙が零れた。


「母は、いつも私に言っていました。『美樹は、フリージアみたいに清楚で可憐な子』って。でも、母が亡くなってから、私……」


「分かりました」


 私は瓶を脇に置き、次々と香料を試していった。


 そして、美樹が反応を示したのは――


 フリージア、スズラン、そしてグリーンティー。


 清廉で、透明感があり、どこか懐かしい香りたち。


「これらが、あなたの『本質』です」


 私は言った。


「夫に媚びるための甘い香りではなく、あなた自身を取り戻すための、清らかな香り」



 調香台の上に、三つの香料瓶を並べる。


 そして、私は――祖母から受け継いだ、特別な儀式を始めた。


「白川さん、目を閉じてください」


 美樹が目を閉じる。


 私は、小さな銀のナイフで、自分の指先をほんの少しだけ切った。


 鋭い痛み。


 そして――


 一滴の血が、調香用のクリスタルビーカーに落ちた。


 その瞬間。


 ビーカーの中で、金色の波紋が広がった。


 まるで水面に石を落としたように、血の一滴を中心に、幾重もの同心円が描かれていく。その波紋は光を放ち、調香室全体を淡い金色に染めた。


 美樹は目を閉じているから、この光景を見ていない。


 これは――私だけが見る、魔女の証。


 私は、無水エタノールを注いだ。


 金色の波紋が、ゆっくりと溶けていく。


 そして――


 フリージアの精油を、三滴。


 スズランの香料を、二滴。


 グリーンティーのアブソリュートを、一滴。


 そして、隠し味に――


 ミルラ。古代から「浄化」の象徴とされる、聖なる樹脂。


 液体が、淡い金色に輝く。


 私は、それを小さなクリスタルの瓶に移し、満月の光が差し込む窓際に置いた。


「今夜は満月です。この香りは、月の光を浴びて、完成します」


「……満月?」


 美樹が目を開ける。


「ええ。満月は、『完成』『達成』『自己実現』を象徴します。あなたが失った自分を取り戻すには、最適な夜です」


 私は美樹に向き直った。


「この香りの名前は、『Renaissance』――再生」


「再生……」


「この香りには、特別な性質があります」


 私は瓶を手に取り、美樹に見せた。


「今、この瓶の中の香りは、まだ『未完成』です」


「え?」


「この香りは、あなたの体温と混ざり合って初めて、世界で唯一の『あなただけの香り』になるのです」


 美樹の目が、驚きに見開かれた。


「あなたの肌の温度、湿度、そして――あなたの心の状態。それら全てが、この香りに影響を与えます。つまり、この香水を纏えば纏うほど、『あなたらしさ』が深まっていくのです」


「私、らしさ……」


「ええ。だから、この香りを纏うとき、あなたは夫のことを考える必要はありません。ただ、鏡の前で、自分自身に微笑んでください」


 美樹の目に、困惑の色が浮かぶ。


「でも、それで夫が――」


「夫が戻ってくるかどうかは、重要ではありません」


 私は、冷たく言い放った。


「重要なのは、あなたが『夫がいなくても、私は美しく、価値がある』と心から思えるようになることです」


「……」


「そうなったとき――本当にあなたを愛する人が、必ず現れます。それが夫かもしれないし、全く別の誰かかもしれない」


 私は、美樹の手を取った。


「でも、それすらも重要ではない。最も大切なのは、あなたが『自分自身を、愛せる』ようになることです」


 美樹の瞳から、また涙が溢れた。


 でも今度は――希望の涙だった。



 一週間後。


 白川美樹から、電話があった。


「莉央さん……あの香り、すごいです」


 彼女の声は、明るかった。


「最初は半信半疑でした。でも、毎朝、あの香りを纏って鏡を見て、自分に微笑むことを続けて……三日目くらいから、何かが変わったんです」


「どんな風に?」


「夫のことが、どうでもよくなって」


 私は微笑んだ。


「夫が何をしていても、私には関係ない。私は私の人生を生きる。そう思えたんです」


「それで?」


「そうしたら――夫の方が、慌て始めたんです」


 美樹の声に、笑いが混じった。


「『最近、お前、変わったな』『どこか出かけるのか?』『その香水、誰にもらったんだ?』って」


「あなたは、何と?」


「『私が、私のために買ったものよ』と答えました。そして、週末、一人で美術館に行くことにしたんです」


「素晴らしい」


「夫は『俺も行く』と言いましたが、断りました。『これは、私の時間だから』って」


 美樹の声が、震えた。


「莉央さん、ありがとうございます。私、気づいたんです。夫を取り戻すことじゃなくて、自分を取り戻すことが、本当に必要だったんだって」


「それが、『Mage』のコンセプトです」


 私は言った。


「嘘つきには地獄の臭いを。真実を求める者には、至高の美を」


「はい……本当に、ありがとうございました」


 電話を切る。


 私は、窓の外を見た。


 銀座の街に、夕暮れが降りてくる。


 『Mage』は、まだ始まったばかり。


 でも、確実に――求める人々の元へ、届き始めている。



 その夜、閉店後。


 私は調香室で、新しい香料の配合を試していた。


 次の依頼人のための香り。


 彼女が求めているのは――「職場のパワハラ上司を黙らせたい」という、少し変わった依頼だった。


 キィィィン。


 ドアのベルが鳴った。


 予約は入っていない。


 私は警戒しながら、店に出た。


 そして――


 息を呑んだ。


 ドアの前に立っていたのは、三十代後半と思われる男性だった。


 漆黒のスーツ。プラチナのカフスボタン。そして、鋭い、しかしどこか虚無的な瞳。


 そして――


 彼が店に足を踏み入れた瞬間、私は奇妙な現象を目撃した。


 彼の周囲、半径一メートルほどの空間が――色を失っていく。


 まるでインクが水に溶けるように、店内の色彩が彼の足元から吸い取られ、モノクロームに変わっていく。


 私が丹精込めて配置した琥珀色の香料瓶も、深紅のカーテンも、全てが灰色に。


 そして、その無色の領域は――彼が歩くたびに、広がっていく。


「初めまして、宮瀬莉央さん――いや、『Mage』の魔女さん、と呼ぶべきか」


 男は、微かに笑った。


 その笑みさえ、どこか色褪せて見えた。


「私は、神代透。IT企業の代表をしています」


 神代透。


 その名前には、覚えがあった。


 弱冠三十五歳で、時価総額一兆円を超える企業を立ち上げた、天才経営者。


 でも――


 私が今、目の当たりにしているのは、ただの成功者ではない。


 これは――


 虚無そのもの。


「予約はしていませんが……少し、お話できませんか」


「予約制です」


 私は冷たく答えた。


「それに、閉店時間を過ぎています」


「承知しています。でも――」


 神代は、一歩、店に踏み込んだ。


 モノクロの領域が、さらに広がる。


 私の足元まで、色が消えていく。


 その瞬間、私は――本能的に、手を伸ばした。


 神代の手首を、掴んだ。


 触れた瞬間。


 彼の肌に触れた私の指先から――色が戻った。


 まるで絵の具を垂らしたように、彼の手首に触れた部分から、ゆっくりと色彩が滲み出していく。


 琥珀色。深紅。金色。


 店の色が、蘇っていく。


 神代の目が、わずかに見開かれた。


「……これは」


「あなた、一体……」


 私は彼の手首を掴んだまま、彼を見つめた。


 神代は、私の手を見下ろした。


「不思議だ。初めて、『温かい』と感じた」


 彼の声に、初めて――感情の欠片が宿った。


「私は、何も感じない人間です。喜びも、悲しみも、怒りも。全てが、まるで他人事のように感じる」


 神代の目が、私を捉えた。


「でも、今――あなたが触れた瞬間、何かが……」


 彼は言葉を切った。


 そして、私の手を優しく外し、カウンターに手を置いた。


「宮瀬さん。あなたは本当に、魔女なのですね」


 私は、何も答えなかった。


 神代は、微笑んだ。


「あなたの元夫、水嶋隼人。そして、桐島沙耶香。二人が、原因不明の悪臭に悩まされ、社会的に破滅したことは、業界では有名な話です」


「……」


「偶然にしては、できすぎている。そして、あなたがこの店を開いた直後に、彼らの破滅が始まった」


 神代は、私をまっすぐ見た。


「私にも――一つ、作っていただけませんか」


「何を?」


「私自身のための、香りを」


 彼は、自分の胸を指差した。


「私に――『感情』を取り戻させる香りを作ってください。どんな手段を使っても構いません」


 神代の目が、初めて――強い渇望を宿した。


「もし成功したら、あなたに一億円を支払います」


 私は、彼を見つめた。


 この男は――


 危険だ。


 でも同時に――


 私の「魔女としての力」を、本当に試される相手だ。


 そして――


 彼に触れたとき、私の指先から色が戻ったあの瞬間。


 あれは、何だったのか。


「……一つ、条件があります」


 私は、冷静に言った。


「もしあなたの感情が戻ったとき、それがあなたにとって『地獄』だったとしても、私を恨まないこと」


 神代の目が、光った。


「約束します」


 私は、彼の手を取った。


 再び、触れた部分から色が滲み出す。


 冷たい。まるで、死人のように。


 でも――確かに、温かくなっていく。


「では――一週間後、またここへ。あなただけの香りを、用意しておきます」


「楽しみにしています、魔女さん」


 神代は、店を出て行った。


 彼が去った後も、店にはしばらく――モノクロの残滓が漂っていた。


 私は、一人になった調香室で――


 新しい挑戦を、予感していた。


 この男に、感情を取り戻させる。


 それは――果たして、救済なのか。


 それとも、呪いなのか。


 私には、まだ分からない。


 でも――


 私の指が、彼に触れた瞬間。


 私の心臓が、確かに――速く打った。


 これは、何?


 魔女は、挑戦を受けて立つ。


 それが、私の矜持。


 たとえ、それが私自身の心を、揺さぶることになっても。


(第三話・了)


次回、第四話「虚無の男に『感情』を」


神代透のために調香するのは、禁断の香り。それは彼に感情を取り戻させるが――同時に、莉央自身の心も、激しく揺さぶることになる――

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2026年1月19日 23:00
2026年1月20日 23:00

魔女の調香師 ―嘘つきには地獄の臭いを、真実を求める者には至高の美を― ソコニ @mi33x

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