第2話 真実を暴く『鉄槌のピアス』
一
離婚調停は、驚くほど順調に進んだ。
夫・隼人は私と顔を合わせるたび、顔を青ざめさせて視線を逸らした。あの夜から、彼の周囲には常に――彼にしか分からない悪臭が漂っているらしい。
弁護士を通じて、私は財産の七割と、隼人が経営する宝石店「ラフィネ・ジュエル」の顧客リストを手に入れた。彼は何も抵抗しなかった。できなかった、と言うべきか。
自宅マンションの一室で、私は小さなアトリエを整えていた。
壁一面の棚には、世界中から取り寄せた香料の瓶が並ぶ。そしてもう一つの棚には――原石。
ルビー、サファイア、エメラルド。そして、まだ磨かれていないダイヤモンドの原石たち。
夫の会社から「処分品」として引き取った、インクルージョン(内包物)が多すぎて商品にならない石たちだ。
普通の宝石商なら見向きもしない。
でも、私には分かる。
この石たちの内包物――閉じ込められた気泡や鉱物の結晶――は、まるで人間の心の濁りのように見える。
完璧に透明な石よりも、この「傷」こそが、魔女の道具として相応しい。
私は、その中から一粒のガーネットを手に取った。
深紅というより、黒に近い血の色。ピジョンブラッド・ガーネットと呼ばれる、最も濃い色味を持つ石。
この石の内部には、十字の形をした黒い内包物がある。まるで、磔刑の影のような。
「これね」
私は呟き、ルーペで石を覗き込んだ。
宝石のカットには法則がある。光の屈折率を計算し、石の硬度と劈開(へきかい・割れやすい方向)を見極め、最も美しく輝くように削り出す。
でも、今から私が施すのは――美しさのためのカットではない。
私は、この石を「血の滴」の形に削る。
そして、底面には極細の針状のカット。まるで、耳に刺さる棘のような。
二
研磨には三日かかった。
通常、宝石職人なら専用の工房で、何人もの手を経て仕上げる。でも私には――魔女の血がある。
祖母から受け継いだ古い研磨機に石をセットし、ダイヤモンドペーストを塗った研磨盤を回す。
キィィィン、という高い音とともに、石が削れていく。
私の指先は、まるで石と対話しているかのように、微細な角度を調整する。
一滴。
完璧な、血の滴の形。
長さ8ミリ、最も膨らんだ部分の直径3ミリ。雫の先端は鋭く尖り、まるで今にも滴り落ちそうな緊張感を持っている。
そして、石の底部――耳に触れる部分には、肉眼では見えないほどの極細の針状カット。これは、ブリリアントカットの技法を応用したものだが、光を反射させるためではなく――
皮膚に、ほんの少しだけ、傷をつけるため。
痛みを感じない程度の、微細な傷。
そこから、ほんの一滴だけ、血が滲む。
その血と石が混ざり合うことで――呪いは完成する。
私は、完成したガーネットをプラチナの台座に留めた。
台座のデザインは、黒い茨。私の紋章。
ピアスの全長は2センチほど。小ぶりで、上品。一見すると、高級ブランドのシンプルなデザインピアスにしか見えない。
でも、耳に通した者だけが知る。
このピアスは――呪われている。
三
翌日、私は沙耶香に連絡を取った。
「莉央……?」
電話口の声は、警戒に満ちていた。
「沙耶香、少し話したいことがあるの。『ラ・メゾン・ド・テ』で、今日の午後三時。来てくれる?」
「……何の話?」
「隼人のこと。それと、私たちのこと」
長い沈黙。
「……分かったわ。行く」
電話が切れた。
私は微笑んだ。
彼女は来る。必ず来る。
なぜなら――罪悪感ではなく、好奇心と優越感に駆られて。
四
高級ホテルのティーサロン『ラ・メゾン・ド・テ』は、社交界の女性たちが情報交換をする場所だった。
私が席に着いて五分後、沙耶香が現れた。
シャネルのツイードジャケットに、エルメスのバーキン。完璧に武装した彼女は、しかし私を見た瞬間、ほんの少しだけ足を止めた。
私の装い。
全身、漆黒。
シンプルなブラックドレスに、唯一の装飾は首元の黒真珠のネックレス。
そして、耳には――何もつけていない。
「莉央……」
沙耶香が席に着く。彼女の目は、私を値踏みするように見つめた。
「元気そうね」
「ええ。あなたも」
私は微笑み、ティーカップを口に運んだ。
「隼人とは、離婚が成立したわ」
「……そう」
「あなたと隼人のことを、責めるつもりはないの」
沙耶香の目が、わずかに見開かれた。
「本当よ。考えたの。もしかしたら、私が夫として見ていた隼人は、私が勝手に作り上げた幻だったのかもしれないって」
これは、嘘ではない。
ただ――全ての真実を語っているわけでもない。
「莉央……あなた」
「だから、これ」
私はテーブルの上に、小さな黒いベルベットの箱を置いた。
「受け取って欲しいの。私たちの友情が、あの夜で終わってしまわないように」
沙耶香は、箱を見つめた。
彼女の目に、欲望の光が灯る。
女は皆、宝石に弱い。特に、罪悪感を抱えている女は。
「……開けてもいい?」
「もちろん」
沙耶香が箱を開けた瞬間、彼女は息を呑んだ。
「これ……ガーネット? でも、こんな色……」
「ピジョンブラッド・ガーネット。血の色よ」
私は言った。
「『真実の友情は、血よりも濃い』という言葉があるでしょう。だから、血の色の石を選んだの」
沙耶香の手が、わずかに震えた。
「莉央、私……あの夜のこと」
「いいの。もう、済んだことだから」
私は優しく微笑んだ。
「ねえ、今、つけてみて。絶対に似合うと思うの」
沙耶香は、躊躇いながらもピアスを手に取った。
そして――耳に通した。
その瞬間。
ピアスの底部の極細の針が、彼女の耳たぶにほんの少しだけ食い込んだ。
沙耶香は何も気づかない。
でも、私には見えた。
ほんの一滴、血が滲むのが。
そして、その血が――石に吸い込まれていくのが。
「……どう?」
沙耶香が鏡を見る。
「綺麗……すごく、綺麗」
彼女は本当に美しかった。
血の雫が、白い首筋を飾っている。
「莉央、ありがとう。本当に……ごめんなさい」
沙耶香の目に、涙が浮かんだ。
でも――
私には分かる。
それは、罪悪感の涙ではない。
「高価な宝石をもらえた」という、打算の涙だ。
「いいのよ」
私は立ち上がった。
「また連絡するわ。体に気をつけてね、沙耶香」
私はサロンを後にした。
呪いは、発動した。
あとは――沙耶香が嘘をつくたびに、その威力は増していく。
五
それから三日後。
社交界で、奇妙な噂が広がり始めた。
桐島沙耶香の周囲で、「異臭騒ぎ」が起きているという。
最初は、彼女が参加したチャリティパーティでのこと。
「ねえ、何か臭わない?」
「本当。なんか……生ゴミみたいな」
会場のあちこちで、人々が鼻をつまみ始めた。
スタッフが慌てて換気をし、ゴミ箱を確認したが、原因は分からない。
そして、その臭いは――沙耶香が移動するたびに、一緒に動いているように見えた。
二日目は、彼女の友人とのランチ会。
「沙耶香、あなた最近、水嶋さんと上手くいってるの?」
友人の一人が尋ねた。
「ええ、もちろん。彼、私に夢中よ」
その瞬間。
むわっ、と悪臭が広がった。
「うっ……」
友人たちが顔をしかめる。
「ごめん、沙耶香……あなた、何か変なもの食べた? すごく……その」
「え? 何が?」
沙耶香は困惑していた。
自分には、何も臭わない。
でも、周囲の人間は明らかに――彼女から漂う何かに、耐えられなくなっている。
三日目。
沙耶香は、隼人とのデートの約束をしていた。
高級レストラン『ル・シエル』の個室。
彼女は完璧にメイクをし、新しいドレスを着て、そして――私が贈ったガーネットのピアスをつけて現れた。
「隼人」
「沙耶香……」
隼人は彼女を見て、顔をしかめた。
「なんだ、この臭い……お前、香水変えたのか?」
「え? 香水なんてつけてないわ」
「嘘をつくな。すごく臭い……まるで、腐った」
隼人は鼻を押さえた。
「隼人、ひどい! 私、何もつけてないって言ってるじゃない!」
「じゃあ、お前の体臭か? 最近、ちゃんと風呂に入ってるのか?」
沙耶香の顔が真っ赤になった。
「失礼ね! あなたこそ、あの日から変な臭いがするって、みんな言ってるわよ! 会社でも、『社長、最近なんか臭い』って噂になってる!」
その瞬間。
悪臭が、爆発的に広がった。
個室中が、ゴミ溜めのような臭気に包まれる。
「うっ……げほっ」
二人とも、咳き込んだ。
そして――お互いを見た。
「お前……」
「あなた……」
二人の目には、嫌悪と軽蔑の色。
「お前のせいだ! お前が、こんな臭い女だとは思わなかった!」
「何よ! あなたこそ! 莉央があんなに綺麗好きだったのに、よくこんな臭い男と暮らせたわね!」
罵り合いが始まった。
そして、それを見ていたのは――レストランのスタッフだけではない。
偶然、隣の個室にいた、宝石業界の重鎮たちが、全てを聞いていた。
六
翌朝、私の携帯に着信があった。
隼人の会社の専務からだった。
「宮瀬さん……いえ、莉央さん。水嶋が、昨夜、取締役会で解任されました」
「……そうですか」
「ええ。あの、レストランでの醜聞が、業界中に広まりまして。取引先からも、『水嶋社長とは今後、取引を控えたい』と」
私は、何も言わなかった。
「それで、お願いがあるのですが……莉央さん、あなた、宝石の目利きができますよね。一度、当社の顧問として、来ていただけませんか」
「顧問……ですか」
「ええ。実は、あなたが昔、処分品として引き取った石たちを、どう再利用できるか、相談したいのです」
私は、窓の外を見た。
秋の陽光が、アトリエの棚に並ぶ香料瓶を照らしている。
そして、その隣には――まだ磨かれていない、無数の原石たち。
「……分かりました。ただし、条件があります」
「何でしょう?」
「私は、もう誰かの『顧問』にはなりません。私は、私自身の店を持ちます」
私は、静かに言った。
「看板のない、予約制のサロン。そこで、私は――本当に価値のある人だけに、特別な香りと宝石を提供します」
「……それは」
「私の作品を、二度と、安易な価値観で測られたくないのです。私の審美眼に叶う人だけが、私の客になる」
電話の向こうで、専務が息を呑んだ。
「……分かりました。では、その店の資金援助を、当社にさせていただけませんか。莉央さんの才能は、本物です」
私は微笑んだ。
「では、契約書を作ってください。ただし、経営権は完全に私に。口出しは一切、認めません」
「承知しました」
電話を切る。
私は、アトリエの机の上に置かれた一枚のスケッチを見た。
黒い茨で囲まれた、ゴシック調の文字。
『Mage――マージュ』
フランス語で、「魔女」を意味する言葉。
これが、私の新しい名前。
私の、新しい人生。
嘘つきには地獄の臭いを。
真実を求める者には、至高の美を。
それが、私のサロンの掟。
そして――次に訪れるのは、どんな「嘘」に苦しむ人だろう。
私は、新しい香料を手に取った。
ジャスミン。夜に咲く、白い花。
その香りは、嘘を暴く。
私の物語は、まだ始まったばかり。
(第二話・了)
次回、第三話「不倫愛を腐らせる『絶望の芳香』」
新しい依頼人が、サロン『Mage』の扉を叩く。彼女が求めるのは――夫を取り戻すための、香り――
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