魔女の調香師 ―嘘つきには地獄の臭いを、真実を求める者には至高の美を―

ソコニ

第1話 幸福の仮面が剥がれる香り



 私が夫のために調香した香水は、誰よりも夫自身を象徴するはずだった。


 トップノートには、シチリア産のベルガモット――ただし、通常のものではない。新月の夜に手摘みされ、三年間、地下の冷暗所で熟成させた特別製。その透明感は、高級宝石商「ラフィネ・ジュエル」の若き社長、水嶋隼人の清廉な第一印象そのものだった。


 ミドルノートは、ダマスクローズとインドネシア産のローズウッド。人を惹きつける温かさと、甘やかな色香。彼が私に見せていた、優しい夫の顔。


 そしてラストノートには――ベチバー、サンダルウッド、オリスルート。そこに、私だけの秘密がある。中世の修道院に眠っていたという、今では手に入らない幻の没薬を、ほんの一滴。大地に根を張る力強さと、聖なる誠実さ――私が信じていた、彼の本質。


 透明なボヘミアンクリスタルのボトルに封じ込めた琥珀色の液体は、陽光を浴びてまるで液化した黄金のように輝いた。


「隼人、お誕生日おめでとう」


 私、宮瀬莉央は、その香水をリボンで結んだ小箱に入れて差し出した。


「莉央……これ、もしかして」


 夫は驚いたように目を見開いた。私の趣味が調香だと知っているが、これほど手の込んだ作品を贈るのは初めてだった。


「あなたをイメージして、三ヶ月かけて調香したの。『Hayato』。世界に一つだけの、あなただけの香り」


「……嬉しいよ」


 夫は私を抱きしめ、額にキスをした。いつもと変わらない、温かな仕草。


 私は幸福だった。


 少なくとも、その時までは。



 その夜、私は夫の書斎で目覚めた。


 誕生日を祝うディナーの後、珍しく強い酒を勧められて、気づけば書斎のソファで眠り込んでいたらしい。時計を見ると、午前二時を回っていた。


 寝室に戻ろうと立ち上がった時、廊下の向こうから声が聞こえた。


「……んっ、隼人……そんなに激しくしたら、声が……」


 聞き覚えのある、甘ったるい嬌声。


 私の親友――いや、親友だと思っていた女、桐島沙耶香の声だった。


 足が、勝手に寝室へ向かっていた。


 ドアの隙間から漏れる明かり。そして、信じたくない音。


 私は、まるで他人の体を操るように、静かにドアノブに手をかけた。


「莉央の作る香水、やっぱりきついわ。鼻につく」


 夫の声。


 胸が、凍りついた。


「ほんと。今日も『世界に一つだけ』とか言って渡してきたけど、自己満足もいいとこよね。あんな古臭い香り、今どき誰が喜ぶのよ」


 沙耶香の嘲笑。


「お前の……お前の愛液の香りの方が、よっぽど俺を興奮させる」


 がちゃり。


 ドアを開けた。


 視界に飛び込んできたのは、私が選んだシルクのシーツの上で、獣のように絡み合う二人の姿。


 夫の首筋に、私が作った香水の瓶が転がっていた。中身はほとんど使われていない。代わりに、部屋には安物のムスク系香水の甘ったるい悪臭が充満していた。


「……っ!莉央!?」


 夫が慌てて体を起こす。沙耶香は布団で体を隠しながら、しかし目には――恐怖ではなく、勝ち誇ったような嘲りの光があった。


「いつから?」


 私の声は、驚くほど冷静だった。


「莉央、違うんだ、これは――」


「いつから、と聞いています」


「……半年前」


 答えたのは沙耶香だった。


「あなたが、調香の趣味に没頭し始めた頃からね。隼人は寂しかったのよ。妻が香料瓶としか向き合ってくれなくて」


「黙れよ、沙耶香」


「いいじゃない。どうせもうバレたんだし。ねえ莉央、あなたって本当に鈍感よね。『完璧な妻』を演じるのに必死で、夫が何を求めているかも分からない」


 沙耶香は立ち上がり、夫のシャツを羽織りながら私に近づいた。


「隼人はね、あなたの『作品』じゃなくて、『女』が欲しかったの。でもあなたは、香水瓶の中にしか愛を注げない。だから私が――」


 ぱしん。


 私の手が、沙耶香の頬を打っていた。


「出て行きなさい。今すぐ」


 沙耶香の目が見開かれた。それは明らかに――期待外れの、という表情だった。


「……つまらない。もっと泣いて喚くかと思ったのに」


 彼女は服をひっつかみ、部屋を出て行った。


 残されたのは、私と夫と、床に転がった香水瓶。



「莉央、俺は――」


「黙ってください」


 私は香水瓶を拾い上げた。


 三ヶ月かけて調香した、夫への愛の結晶。


 新月の夜に収穫されたベルガモット。三年熟成させた香料たち。中世の修道院から手に入れた幻の没薬。


 その全てが、私の愛を――私の審美眼を、嘲笑われた。


 私は、その瓶を床に叩きつけた。


 がしゃん。


 クリスタルが砕け散り、琥珀色の液体が白い絨毯に染み込んでいく。そして――


 破片が、私の掌を深く切った。


 赤い血が、透明な破片を伝って滴り落ちる。


 不思議なことに、痛みはなかった。


 その代わり、頭の奥で――何かが、目覚めた。


 古い記憶。いや、記憶ですらない。もっと根源的な、血に刻まれた何か。


 私の母方の祖母は、村人から「魔女」と呼ばれていたと聞く。薬草を調合し、病を治し、時には――人の運命を変える香油を作ったという。


 私が調香に惹かれたのは、その血のせいかもしれない。


 そして今、その血が――目覚めた。


 床に広がった琥珀色の液体に、私の血が混ざる。


 その瞬間。


 液体が、どす黒い紫に変色した。


 まるで腐敗した薔薇のような、禍々しい色。そこから、煙のように黒い茨が這い出してきた。


「な、何だ……これは……」


 夫が後ずさる。


 黒い茨は床を這い、夫の足首に絡みついた。それは幻影――他人には見えない、私と彼だけに共有された『罪の可視化』。


 そして部屋に、悪臭が広がった。


 腐った肉。発酵した汚物。ドブに沈んだ獣の死骸――あらゆる腐敗臭が混ざり合った、地獄のような臭気。


「うっ……ぐっ……莉央、お前、何をした……!」


 夫が喉を押さえ、床に膝をつく。


 私には分かった。


 これは、彼の欲望が腐敗した臭いだ。


 偽りの優しさ。上辺だけの愛。そして――私への裏切り。その全てが、今、悪臭となって顕現している。


「隼人」


 私は血に濡れたクリスタルの破片を、ダイヤモンドよりも愛おしそうに掲げた。


「この香水は、あなたの魂の形に合わせて作ったものよ。……見て。あなたの魂は、こんなにもドブの臭いがして、醜く濁っている」


 夫の顔から血の気が引いていく。


「私が三ヶ月かけて愛したのは、あなたではなく、私が作り上げた『幻』だったのね」


 黒い茨が、夫の首に絡みつく。彼は必死にそれを振り払おうとするが、幻影に触れることはできない。


「何もしていないわ。ただ、あなたの本性が、私の香りに耐えられなかっただけ」


 私は、割れた香水瓶の破片を床に並べ始めた。


 まるで、新しい調香の実験をするように。


 もう二度と、誰も欺けないような香りを作るために。


「さようなら、隼人」


 私は立ち上がり、夫を見下ろした。


「あなたは私の『作品』を汚した。私の審美眼に叶わない汚物として、この部屋から、私の人生から、消えなさい」


 夫の目に、初めて恐怖の色が浮かんだ。


「その報いは、これからのあなたの人生そのものが放つ悪臭で、一生払い続けることになる」


 私は踵を返した。


「明日、弁護士を呼びます。離婚の手続きを進めてください。慰謝料と財産分与については、こちらの弁護士から連絡させます」


 背後で夫が何か叫んでいたが、もう聞こえなかった。


 私の耳には、ただ一つの声だけが響いていた。


 ――目覚めよ、魔女の娘。お前の本当の人生は、ここから始まる。


 掌の傷から滴る血が、廊下に赤い道を描いていく。


 それは、復讐への道標。


 いや――再生への、処方箋。


 嘘つきには地獄の臭いを。


 そして私自身には――至高の自由を。


 私、宮瀬莉央は、この夜、死んだ。


 そして、魔女として、生まれ変わった。


 黒い茨は、私の新しい紋章。


 偽物を許さない。真実だけを愛する。


 それが、これから私が生きる、新しい世界の掟。


(第一話・了)


次回、第二話「真実を暴く『鉄槌のピアス』」


最初の標的は、親友だった女。彼女に贈るのは、嘘をつくたびに血を流す、紅い宝石――

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