第5話 揺らぐ純潔の壁

 桜の花びらが無機質なアスファルトに散り敷く四月。御茶ノ水の大学キャンパスは、未来への無根拠な全能感に酔いしれる新入生たちの、不快なほどに瑞々しい活気で満ちていた。聖園凛華みそのりんかは医学部のオリエンテーションを終え、ショートカットの黒髪を春風に遊ばせながら、静寂を求めて図書館へと足を向けていた。


 鋭い目つきは相変わらずで、高校時代の制服を脱ぎ捨てて私服に身を包んだ今も、彼女の周囲には他者を拒絶する不可視の鉄条網――「近寄るな」というオーラが張り巡らされている。だが、その強固な外殻の内側では、大学生活という未知の荒波への期待と、正体不明の不安が激しく渦巻いていた。


(高校時代のあの「凛華マインド」――私の矜持であるテーソー観念を、この自由という名の無秩序な場所で守り抜けるだろうか?)


 新しい環境、開放的な空気。誰もが当然のように恋愛を謳歌し、性を消費していく中で、自分だけが化石のような古いルールに縛られ、一人取り残されていくような予感。胸の奥が、冷たいナイフで撫でられたようにざわついた。しかし、凛華はその弱さを認めることを自分に許さない。


(私はこれでいい。これが私を私たらしめる唯一の法なのだから)


 岡崎翔との出会いが、その不安を薄氷のように辛うじて繋ぎ止めていた。けれど、その平穏すら、まだ心の底からは信じきれずにいた。


 大学合格後、凛華の生活は静かに、しかし確実に変質し始めていた。翔との交際は、驚くほど自然に始まった。彼は凛華の峻烈な価値観を否定せず、むしろ一つの高潔な美学として尊重し、決して無理に境界線を越えようとはしなかった。


 二人のデートは、もっぱらカフェでの議論に費やされた。環境問題、難解な古典文学――知的な火花を散らす対話の中で、凛華は翔の穏やかな笑顔に、少しずつ、氷が溶けるような速度で心を許し始めていた。翔の眼鏡越しの優しい視線が、凛華の凍てついた胸の奥に、ささやかな温かな灯火を灯す。(あの悠真の時とは、何かが決定的に違う……)この人は、私を急かさない。私の聖域を土足で踏み荒らさない。


 けれど、安らぎが深まるほどに、凛華は自らの内側に潜む「矛盾」に苛まれるようになった。真夜中、独りでベッドに横たわるとき、ふとした瞬間に翔の大きな手に触れたいと願ってしまう自分。そんな欲求が芽生えるたびに、凛華は激しい自己嫌悪に陥った。


(変わっちゃいけない。この「マインド」こそが、私という存在を汚濁から守ってきた盾だったはずなのに。……触れるのが怖いのに、なぜ彼の熱を想像するだけで、心臓がこんなに痛いほど脈打つの?)


「聖園さん、今日の講義、どうだった?」


 キャンパスの古びたベンチで、翔が隣に座り、柔らかく尋ねた。彼の声はいつも凪いだ海のように落ち着いていて、凛華の張り詰めた神経を緩やかに解いていく。凛華はいつもの仏頂面を装いながらも、内心では翔の存在が自分にとって不可欠な「呼吸器」になりつつあることを認めていた。


「ふん、まあまあね。基礎医学の教授、話が冗長で退屈だったわ」


 そっけない言葉とは裏腹に、胸の奥では翔と時間を共有できることへの小さな、けれど鮮やかな喜びが芽吹いていた。環境問題について熱く語る翔の横顔を見つめるたび、凛華は自分の世界が広がるのを感じる。しかし、それは同時に、自らの「壁」を試されるような、危うい誘惑でもあった。


 そんな静かな侵食の中に、一人の女が闖入した。同学部の加藤恵美かとうめぐみ。太陽のような明るいロングヘアを揺らし、華やかな笑顔で周囲を魅了する美女。凛華が最も忌み嫌う「男受け」を計算し尽くしたようなタイプだった。


 恵美はすぐに翔という優良な獲物に目を付け、グループワークを隠れ蓑にして積極的に距離を詰めてきた。恵美の視線が翔に向けられるたび、凛華の心臓には毒を塗った小さな棘が刺さる。(あの女、翔を狙ってる。私の、たった一人の理解者を……)嫉妬?まさか。そんな下俗な感情、私のマインドには存在しない。凛華は必死に否定したが、恵美の指先が翔の肩に触れるのを見るたび、視界が真っ赤に染まるような苛立ちに支配された。


「翔くん、すごいね!サークルのリーダーなんだ?私も興味あるな、今度一緒に活動させて?」


 恵美の甘ったるい声が、凛華の鼓膜を不快に震わせる。恵美の彼氏は、悠真と同じ大学に通う宮部明彦。真面目で天使のような男だと聞いていたが、凛華には恵美の笑顔の裏にある、飽くなき征服欲が透けて見えた。凛華の心はざわついた。あの触れ方、わざとだ。私の前で、そんなことするなんて……。凛華は拳を握りしめ、胸のモヤモヤを抑え込んだ。


「恵美、あんた、翔に近づきすぎじゃない?」


 ある日、ついに我慢の限界を超えた凛華は、恵美を冷ややかに牽制した。恵美はニコリと笑い、三日月のような目で凛華を値踏みした。「え、凛華ちゃん、もしかして嫉妬?かわいい!でも、翔くんって本当に素敵な人よね。私、もっと彼のこと、深いところまで知りたくなっちゃった」


 凛華の胸に、激しい怒りが湧いた。(嫉妬じゃない!あんたみたいな汚れきった女が、私の翔を汚すのが許せないだけ!)けれど、夜の闇の中で、残酷な予言が囁く。(もし翔が、私の与えられないものを恵美に求めたら?私の頑ななマインドが、彼をあっち側へ追いやってしまうんじゃないか?)生まれて初めて、自らの「正義」を疑う寒気が凛華を襲った。鏡の前で自分を見つめ、彼女は呟く。「キスなんて、汚らわしい。……でも、翔の唇を想像して熱くなるこの体は、何?私のマインドが、崩れかけてる?」そんな自分に恐怖を感じ、変わったらすべてを失う気がして震えた。でも、変わらないと、翔を失うかもしれない。


 一方、飯田橋の大学では、悠真と美咲の関係が順調だった。美咲は凛華に連絡を密に取り、大学生活の話を共有した。美咲の明るい声が、凛華の孤独を和らげたが、同時に鋭い刺激も与えた。「凛華、翔くんとどう?キスとかした?」美咲の無邪気な質問に、凛華はスマホを握りしめて返した。『するわけないでしょ。気持ち悪い』凛華の返信は強気だったが、心は揺れていた。翔との関係は穏やかだが、どこか物足りない。悠真の時のように激しい感情がない。でも、それがいいはずなのに。


 ある週末、医学部のサークル合宿が箱根で開かれた。凛華、翔、恵美も参加していた。夜のミーティング後、恵美は翔を半ば強引に湖畔へと誘い出した。凛華は一人部屋で待っていたが、一時間を過ぎても戻らない帰りに不安が募った。(あの二人が、一緒にいるなんて……)想像するだけで胸が痛い。凛華はベッドに座り、膝を抱えた。翔、早く帰ってきて。私のルールじゃ、祈ることしかできない。心の奥で、嫉妬の炎が燃え始める。


 その頃、恵美は翔を湖畔のベンチに連れ出していた。月明かりの下、恵美の目が妖しく輝く。彼女は翔の手に触れ、甘い声で囁いた。「翔くん、凛華ちゃんとはどう?あの子、冷たいよね。私なら、もっと温かくしてあげられるよ」翔は戸惑ったが、恵美の圧倒的な肉体の魅力に抗えなかった。酒の勢いも借り、恵美は翔の首に腕を回した。唇が重なり、恵美の体が翔に密着する。翔の心は揺れた。凛華の「拒絶」が、無意識のうちに彼を追い詰めていたのだ。恵美の柔らかい肌が、翔の理性を溶かした。


 二人は近くの空き部屋に戻り、恵美が翔のシャツを脱がせた。恵美の指が翔の体を這い、熱い息が絡み合う。翔は恵美の胸に顔を埋め、彼女の甘い匂いに溺れた。恵美は翔の耳元で囁いた。「凛華ちゃんじゃ、満足できないでしょ?私なら、全部受け止めてあげる」翔は抵抗を諦め、二人は激しく体を重ねた。恵美の喘ぎ声が部屋に響き、翔の心に罪悪感が混ざった。でも、恵美の体は甘く、翔を虜にした。事後、恵美は満足げに笑った。「翔くん、最高だったよ。またね」


 翌朝、凛華は翔の態度が明らかに変わっていることに気づいた。眼鏡の下の目が、自分を避けるように泳いでいる。凛華の胸に、最悪の予感が広がった。何かあった。恵美の視線が、勝ち誇ったように凛華を射抜いている。


「翔、何かあった?」


 凛華の鋭い追及に、翔は耐えかねてため息をついた。その声は震え、凛華の心を無慈悲に抉った。「ごめん、聖園さん。恵美と……エッチしちゃった。酒の勢いで……」


 凛華の心が凍りついた。寝取られた?この私が?翔の言葉は、凛華の「凛華マインド」を粉々に砕く槌だった。恵美の悪魔的な笑顔が頭に浮かぶ。あの女、わざと私の大切なものを奪ったんだ。


 激しい痛みが走り、凛華は部屋を飛び出した。箱根の山道を走りながら、心は嵐のようだった。なぜ?翔は私を選んだはずなのに。恵美みたいな女に、負けたの?嫉妬と怒りと、自己嫌悪が混ざり、凛華は吐きそうになった。(私のマインドは、間違いだった?でも、それを捨てたら、私は何になるの?)過去の悠真との別れが重なる。結局、私は誰も繋ぎ止めることができないのか。


 横浜に戻った凛華は、家でベッドに突っ伏した。私が与えられなかったものを、恵美は与えたんだ。夜通し自問自答した。悠真の時も、美咲に奪われた。でも今回は違う。翔は、私の彼氏だったのに……。心の奥で、決定的な変化の兆しが芽生えた。(愛を与えるって、何?身体を許すこと?それが、恋愛の「普通」なの?)鏡の自分を睨んだ。変わらなきゃ、誰もいなくなる。でも、変わるのが怖い。


 そんな絶望の中にいた凛華に連絡してきたのが、明彦だった。悠真から凛華の惨状を聞き、同情した明彦は、天使のような優しさで相談に乗った。「聖園さん、大丈夫?恵美のこと、僕も知ってる。彼女は……自由奔放で。でも、君の気持ち、わかるよ」


 明彦の声は穏やかで、凛華はつい本音をこぼした。カフェで会うようになり、明彦の真面目さが凛華の傷を癒した。彼は恵美と肉体関係がない「純粋な付き合い」だったことを明かし、凛華の価値観を尊重した。「僕も、純潔を大事に思うよ。聖園さんみたいな人が、傷つくのはおかしい」


 凛華は明彦に惹かれていく。それは奇妙な「NTRの連鎖」だった。恵美は翔を寝取り、凛華は結果的に明彦を寝取る形になった。明彦は恵美を捨て、凛華を選んだ。凛華の心は複雑だった。報復のような、けれど救いのようなこの関係。


 明彦の手に触れる瞬間、翔の裏切りがフラッシュバックする。でも、明彦の視線が、凛華を温かく包む。(初めて、身体的な接触を許せそうな気がした。でも、まだ踏み出せない。私のマインドは、変わらない。でも……変わりたいのかも)


 美咲に相談すると、彼女は心配そうに言った。「凛華、変わったね。でも、それでいいの?『凛華マインド』、崩れちゃうよ」


 凛華は窓の外の桜を見ながら、呟いた。「変わるって、怖い。でも、愛を与えられないままじゃ、一生寂しいままかも……」


 大学生活は続き、凛華の壁は少しずつ揺らぎ始めた。しかし、寝取られた傷は深く、彼女の心に長い影を落とした。凛華はまだ、自分のハッピーエンドを探し続けていた。心の軋みが、静かに響く中、彼女は一歩を踏み出そうとしていた。変わる勇気が、ようやく、その冷たい胸の中に芽生え始めていた。

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