第4話 出会いの仕掛け
あの夜、桜木町の駅前で美咲に叫び声をぶつけ、悠真を置き去りにしてから、数ヶ月の月日が流れた。凍てつくような冬の間に、三人の間には刺々しい沈黙と、それを埋めようとする必死な歩み寄りがあった。
「ごめん、凛華。私、本当に最低だった。凛華を傷つけたいわけじゃなかったの……」
美咲は、学校の屋上で何度も頭を下げ、涙を浮かべて謝罪した。悠真もまた、後日呼び出した喫茶店で、冷え切った缶コーヒーの時のように熱を持った瞳で「僕も、君を意図的に揺さぶるような真似をして悪かった」と深く頭を下げた。
凛華は、その謝罪を「わかった」の一言で受け入れた。だが、許したからといって、胸の奥に刻まれた「親友と元彼が、自分の拒絶した温度を共有している」という事実が消えるわけではない。ギクシャクとした、薄氷の上を歩くような三人の関係。修復されたはずの絆は、以前のような無垢なものではなく、あちこちに継ぎ接ぎの跡が目立つ歪なものになっていた。
春の陽気が横浜の街を優しく包む三月。大学の合否発表を終え、厳格だった女子高の卒業式を終えたばかりの聖園凛華は、元町の老舗喫茶店「カフェ・ド・フルール」の窓際の席に座っていた。
ショートカットのボーイッシュな黒髪が、柔らかい日差しに照らされ、繊細な光の輪を作っている。しかし、その内側に宿る鋭い目つきは相変わらずで、周囲に対して「近寄るな」という無言のオーラを放っていた。
凛華は卒業後のこの時期、これから始まる大学生活への期待よりも、底知れない不安に苛まれていた。新しい環境で、自分という存在の核である「凛華マインド」を死守できるだろうか。誰もが「自由」という名の下に奔放に生きる大学という海の中で、自分だけが古びた鉄のルールに縛られ、溺れてしまうのではないか。そんな予感に、胸の奥が絶えずざわついていた。
凛華はコーヒーカップを手に、仏頂面のまま、目の前で子犬のようにはしゃぎ続ける美咲をチラリと見た。美咲のツインテールが、まるであの夜の衝突などなかったかのように元気よく跳ねている。凛華は小さくため息をつき、遮るように呟いた。
「ねえ、美咲、ちょっと静かにできない?耳が痛いわ」
美咲は気にした様子もなくニコニコしながら、テーブルに身を乗り出した。「えー、だって卒業したんだよ!凛華、いつまでもそんな風に引きこもってないで、もっと人生を楽しもうよ!」
凛華はカップを置き、窓の外、元町の洗練された街並みを眺めた。「楽しむって、こういう生産性のない無駄話のこと?大学が始まる前に、私は医学部での勉強の準備をしたいんだけど」「もう、凛華ったら真面目すぎ!ねえ、医学部で何を専攻したいの?」
美咲の問いに、凛華は一瞬だけ思考を巡らせた。指先でカップの縁をなぞりながら答える。「そうだなあ……基礎医学、臨床医学、社会医学。いろいろあるけど、やっぱり臨床医学かな。産婦人科学か、それとも精神神経医学か……。今はその二つで迷っているところ」
美咲は目を丸くし、弾むように突っ込んだ。「え、産婦人科学と精神神経医学って、ぜんっぜん分野が違うじゃん!なんでその二つなの?」
凛華はキッと美咲を射抜くように睨み、氷のような声で言い放った。「違わないよ。本質は同じ。……産婦人科学なら、男に無理やりやられて望まない妊娠をした女性の堕胎手術や、不潔な性病をうつされた被害女性の治療。精神神経医学なら、やりたくもないセックスを強要された女性のセラピーとか、『レス』であることを非難されて病んでいる女性の救済。どっちも、男によって汚され、傷つけられた女の人の苦しみを、私の手で救い出す仕事でしょ」
あまりに偏った、けれど切実なその動機に、美咲は一瞬言葉を詰まらせ、困惑したように首を振った。「うわ、凛華……それ、めっちゃ男絡みの視点しかないね!もっとこう、純粋に病気を治すとか、他の医学の道はないの?」
「ない!それ以外に、私が医者になる理由なんて興味ないわよ」凛華は即座に断言した。美咲はテーブルに突っ伏し、わざと大げさに、けれどどこか愛しげにため息をついた。
「やれやれ、凛華の壁、相変わらず厚すぎ。医学部に行っても、その『凛華マインド』を全開で貫くつもりなの?」「当たり前でしょ。私のルールは、私そのものなんだから。これを曲げることは、死ぬことと同じよ」
凛華は唇を尖らせ、冷めたコーヒーを一口飲んだ。美咲はクスッと笑い、気を取り直して話題を切り替えた。少し身を乗り出し、いたずらっぽくニヤリと笑う。「そうそう、同級生の
凛華はカップをテーブルに叩きつけるように置き、露骨に顔をしかめた。「恵美?あの子、大嫌い!」「え、なんで?恵美、いい子じゃん」
「男に媚びてるって聞いたわ。誰彼構わず、チャラチャラと愛想を振りまくような女、虫酸が走るのよ!」凛華は腕を組み、低く唸るように言い放った。美咲はからかうように肩をすくめる。「ふーん、じゃあ私もダメ?私、悠真にめっちゃ媚びてるよ!」
凛華は一瞬沈黙した。美咲と悠真の間に流れる「温度」を思い出し、胸の奥がちくりと刺されたように痛む。仏頂面で美咲を睨み返す。「……美咲は、悠真だけだから、まあ、百歩譲って許すわよ。でも、恵美みたいな誰にでも隙を見せるタイプは、生理的に絶対に無理!」
美咲は手を叩いて笑い、瞳を輝かせた。「はは、凛華、本当に正直ね!でもさ、聞いてよ。悠真の同級生に
美咲はここからが本題だと言わんばかりに声を弾ませた。「悠真がさ、『凛華にも誰か紹介したい!』って言うのよ。凛華の性格を分かった上で、絶対に無理強いしない、医学部志望の凄くいい奴がいるって。知りたい?」
凛華は目を細め、折れそうなほど強くカップを握りしめた。「知りたくない!なんで私が悠真の施しみたいな話に乗らなきゃいけないのよ!?」「えー、でも絶対に気になるでしょ?凛華、耳まで赤くなってるよ」
美咲のニヤニヤした追及に、凛華はテーブルを軽く叩いて声を張り上げた。「知りたくないって言ってるでしょ!やめてよ、美咲!」
「ほらほら、怒らないで。その子、
凛華は顔を真っ赤にして、美咲をキッと睨み据えた。だが、美咲はいたずらっぽく笑うのをやめない。「じゃあ、明日、お見合いセッティングしちゃうね!」「会いたくないって、何回言えばわかるの!?美咲、あんた本当に最低よ!」
「いいから、いいから。凛華、絶対楽しいから!」
凛華は絶望的なため息をつき、窓の外を見つめた。(ほんと、最悪……。美咲のバカ、悠真のバカ。こんなの、私が守りたかったハッピーエンドじゃない……)胸の奥で、激しい拒絶とは裏腹に、好奇心という名の小さな芽が毒のように芽吹くのを凛華は感じていた。会いたくないはずなのに、自分のルールを邪魔しない男とはどんな存在なのか、勝手に想像してしまう自分に、無性に苛立ちを覚えた。
翌日。馬車道の静かなフレンチレストラン「ル・ジャルダン」の個室。凛華は完全にぶんむくれたまま、純白のテーブルクロスを見つめていた。ショートカットの黒髪が、彼女の纏う不機嫌なオーラを一層際立たせ、刺すような緊張感を生んでいる。目の前には、美咲と悠真が、どこか新婚夫婦のような落ち着きで並んで座っていた。そしてその隣、凛華の正面には、
黒髪を清潔感のある短さに整え、知的な銀縁の眼鏡をかけた彼は、驚くほど穏やかな笑顔で凛華を見つめていた。凛華は、その視線に込められた「熱のなさ」に気づき、逆に胸が少しどきどきした。(こんなの、ただの不測の事態への緊張よ。変な勘違いしないでよね)
悠真は少し気まずそうに、けれどかつての恋人を思いやるような笑顔で口を開いた。「えっと、凛華。翔は本当に良い奴なんだ。環境問題とか文学とか、凛華の好きそうな硬い話もいっぱい持ってるよ」
凛華は仏頂面のまま、チラリと翔を値踏みするように見た。「ふん……悠真がそこまで言うなんて、逆に怪しさしか感じないんだけど?」フォークを握りしめ、ぶっきらぼうに突き放す。
翔は柔らかく笑い、落ち着いたテノールで答えた。「聖園さん、はじめまして。岡崎翔です。悠真から噂は聞いていたけど……本当に、独特な雰囲気の方だね。嫌いじゃないよ、そういうの」
凛華は一瞬言葉に詰まり、反論を探すように頬を膨らませた。「独特って何よ!?馬鹿にしてるんでしょ。私を記号か何かだと思ってるの?」「いやいや、本当に。凛とした強さを感じたんだ。もっと話してみたいなって思っただけだよ」
翔は笑顔を崩さず、真っ直ぐに凛華を見た。その瞳には、悠真が持っていた「自分を変えようとする押し付けがましさ」が、微塵も感じられない。「ふん……話すことなんて何もないわよ。私のルール、邪魔しないでよね」凛華は唇を尖らせ、サラダの葉を無意味に突きながら呟いた。
「ねえ、凛華、翔くんいい感じじゃない!ほら、もっと自分から話してみなよ!」美咲がニヤニヤしながら二人を煽る。凛華はキッと美咲を睨み、声を押し殺して言った。「美咲、本当に黙ってて!これ、全部あんたの差し金でしょ!」
悠真は苦笑いしながら、仲裁するようにフォークを持った。「凛華、そう怒らないで。僕は本当に、翔なら君に合うと思ったんだ。彼なら、君のルールを尊重してくれるはずだから」
凛華はコーヒーカップを両手で包むように握り、窓の外の景色に逃げた。「合うわけないじゃん……。こんなの、私のペースじゃない。不本意だわ」呟く言葉とは裏腹に、心の中で翔の穏やかな声が、さざなみのように心地よく響くことに気づき、凛華は激しく動揺した。(この人……悠真とは、何かが決定的に違う。私の壁を壊そうとせず、ただそこに在ることを許しているような……)
翔は凛華の頑固な仏頂面を眩しいものでも見るように見つめ、静かに言った。「聖園さん、君のペースを乱すつもりはないよ。僕、自分でも呆れるくらい急がないタイプだから。今日はただ、ゆっくり話せればいいと思ってる」
凛華はチラリと翔の眼鏡の奥を覗き見た。「……ふん。まあ、話すだけなら、毒にも薬にもならないでしょうけど」渋々答えた凛華に、美咲が手を叩いて喜ぶ。「ほら!凛華、ちょっとは興味湧いてきたでしょ!やった、成功!」
「興味ないって何回言えばわかるのよ!?」凛華は顔を真っ赤にして声を張り上げた。
レストランの窓の外では、歴史ある馬車道の街並みが、春の眩い光に祝福されるように輝いていた。四人の会話は軽快に、しかし依然として不協和音を孕みながら続いていく。凛華はコーヒーを一口飲み、決して仏頂面を崩さなかった。
だが、彼女の心の深淵では、この不本意な出会いが、自ら作り上げた「凛華マインド」という名の堅牢なルールを、静かに、けれど確実に揺らし始めている予感に震えていた。
これは、変わるためのチャンスなのか。それとも、すべてを失うための罠なのか。凛華は、初めて会う翔の横顔を、盗み見るように視線で追わずにはいられなかった。
馬車道のレストランを出て、美咲たちの賑やかな声から逃れるように一人、帰路についた。家路を辿る凛華の足取りは、春の宵の風に煽られて、どこかおぼつかない。自室に戻り、着慣れたパジャマに着替えてベッドに身を投げ出すと、ようやく「聖園凛華」という武装を解くことができた。しかし、静まり返った部屋の中で、昼間の翔の穏やかな声が耳の奥で何度もリフレインする。
(「急がないタイプだから」……あんなこと、悠真だって言わなかったのに)
その時、机の上に置いたスマホが短く震えた。美咲からの騒がしい通知かと思い、無視しようとしたが、画面に表示されたのは見覚えのない連絡先だった。
『今日はありがとうございました。岡崎翔です。聖園さんの「ルールを邪魔しないで」という言葉、帰りの電車でずっと考えていました。僕も自分の時間を大切にする質なので、その感覚、少しだけ分かる気がします。無理にとは言いませんが、もし良ければ、また医学の話の続きを聞かせてください。おやすみなさい。』
短く、簡潔なメッセージ。そこには、凛華が最も嫌う「踏み込みすぎる馴れ馴れしさ」も、美咲のような「土足で入り込む無遠慮さ」もなかった。ただ、彼女の存在をそのまま受け入れたような、適度な距離感。凛華はスマホを握りしめたまま、天井を見つめた。
「……何よ。勉強の続きなら、一人でもできるわよ」
口ではそう毒づきながらも、返信をどう打つべきか、あるいは無視すべきか悩んでいる自分に気づき、凛華は顔を火照らせた。心臓の鼓動が、静かな部屋に不規則に響く。それは、彼女が必死に守り続けてきた「凛華マインド」の壁を、優しく叩くような音だった。
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