第3話 心の軋み
悠真の顔を見るたび、あの別れの日のカフェで交わした冷たい会話が、呪いのように頭をよぎる。友達でいい、そう凛然と言い放ったのは私の方だったはずなのに。なのになぜ、胸の奥がこれほどまでに醜く波打ち、モヤモヤするのだろう。
凛華は必死に「凛華マインド」という名の論理で自らの感情を分析しようとしたが、導き出される答えはどれも霧のように実体を結ばない。
横浜ブルク13の映画館。空気の重い薄暗いシアターの中で、凛華は美咲を挟んで左側に座り、悠真は右側に座った。凛華は憮然とした表情で、光の筋が走るスクリーンを見つめていたが、意識の半分以上は隣から伝わってくる微かな「二人」の熱に奪われていた。
なんで私がこんな目に……。美咲のバカ!悠真のバカ!彼女の心は、凪ぐことのない荒れ狂う海のようだった。悠真を拒絶し、別れたことで、自分の信念である「凛華マインド」を完璧に貫いたはずなのに。守り抜いたはずの心のどこかが、不快な音を立てて軋んでいる。
(私が間違ってる?そんなわけない。私のルールを否定することは、私自身を否定することだもん)そう自分に言い聞かせるが、隣に座る美咲と悠真の、親密さを孕んだ気配が容赦なく集中を乱し、彼女の誇りを削り取っていく。
上映されている映画『ラスト・ブレス』は、飽和潜水士の過酷な実話を描いた作品だった。深海の圧倒的な水圧、死と隣り合わせの緊迫感ある展開に、観客は息をのんでいたが、凛華の心は物語とは全く別の場所で迷走していた。
隣で美咲がポップコーンをポリポリと小気味よく食べ、時折、悠真と顔を寄せて小声で笑い合う。そのすべてが、今の凛華には異常なほど耳障りだった。美咲のくぐもった笑い声が、凛華の胸に小さな、けれど深く鋭い針を突き刺す。(なに?わざとやってるの?私の前で、悠真とイチャイチャして楽しいわけ?)嫉妬?そんな醜悪な言葉が脳裏をよぎるが、凛華はそれを即座に激しく否定する。これはただの不快感、秩序を乱されたことへの憤りなのだと。
映画が終わると、三人は桜木町駅近くの喫茶店に入った。飴色の家具が並ぶレトロな雰囲気の店内。重厚な木製のテーブルを囲んで座った三人は、それぞれが言葉にできない微妙な空気を纏い、沈黙の層を重ねていた。
凛華は温もりを拒むようにコーヒーカップを手に取り、窓の外をぼんやりと眺めた。(これ、世間で言う「NTR」ってやつなの?)そんな俗っぽい言葉が、彼女の潔癖な思考に混じる。元彼の悠真と、唯一の親友である美咲が、今、自分の目の前で当然のように寄り添っている。自分にはもう無関係なはずなのに、胸の奥がチクチクと、まるで細い糸で締め付けられるように痛んだ。
彼女の心象風景は、いまや深い霧に包まれた港のようだった。誇りを守るための航路はどこなのか、どこへ向かえばこの痛みから逃れられるのか、彼女にはもうわからなかった。
(私がこんな気分になるなんて、絶対におかしいよね)私には、私が命懸けで守ってきたルールがある。悠真なんかに心を揺らされるはずがない。でも、悠真が向ける柔らかな笑顔が自分ではなく美咲に向けられているのを見ると、心臓が握りつぶされるようなざわつきを覚える。あの笑顔、ほんの少し前までは、不器用な私に向けられていたはずなのに。凛華は脳裏に浮かぶ過去のデートの断片を振り払おうとして、逆にその喪失感に胸を締め付けられた。
美咲は楽しそうに、映画の感想を悠真に語りかけていた。彼女の弾むような明るい声は、まるで凛華の目の前で「手に入れた幸せ」をこれ見よがしにアピールしているようにさえ聞こえた。
だが、美咲の心の奥底にも、計算と祈りが入り混じった別の思いがあった。(ねえ凛華、こんな風に悠真くんと楽しそうにしてたら、少しは嫉妬してくれる?凛華の「凛華マインド」は立派だけど、でも、恋愛って本当に楽しいんだよ?)親友だからこそ、凛華が自ら作った氷の城の中で凍えているのが寂しかった。少しでもいい、その頑なな心を溶かしたい。美咲はそんな思いで、あえて「恋人」の役割を演じ、凛華の反応を誘っていた。
「ねえ、悠真くん、あの潜水士が海底でピンチになったシーン、めっちゃハラハラしたよね!」「うん、ほんと!あの状況でよく生還したよな。映像がリアルすぎて、僕も鳥肌立ったよ」
悠真の声は努めて明るかったが、彼の心もまた、複雑な波紋を描いていた。美咲の隣は居心地が良く、彼女の屈託のない明るさに何度も救われてきたのは事実だ。しかし、視線の端に映る凛華の冷たい、けれどどこか傷ついたような横顔を感じるたび、胸の奥に小さな棘が刺さる感覚を拭えない。(聖園さん、僕のこと、今どう思ってるんだろう。友達でいいって言ったけど、本当にそれだけで納得してるのかな)
悠真は、かつて凛華の「凛華マインド」を全力で理解しようともがいた日々を思い出していた。あの頃、彼女を変えようとした自分の傲慢さが二人を壊したのかもしれない。それでも、心のどこかで、彼女の頑なな姿勢を壊してあげたい、恋愛の喜びを知ってほしいという未練にも似た願いが、悠真の中で静かに疼いていた。
二人の楽しげな会話が重なるほど、凛華は自分だけが異物になったような疎外感に苛まれた。(私、ここにいる意味ある?見せつけられるために呼ばれたの?)そう思いながらも、彼女は逃げ出す代わりに、自らを傷つけるような言葉を口にした。
「ねえ、あなたたち。――どこまで進んだの?」
凛華の声は、わざと興味なさげに、温度を抜いて冷たく響いた。だが、その裏側では、答えを聞くのが恐ろしくてたまらない臆病な自分が叫んでいた。
美咲が一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに意地悪な、けれど期待を込めた笑みを浮かべて答えた。凛華の平穏をあえて乱すために。
「え、ちょっと、キスしたよ」
その瞬間、凛華の心臓が凍りつき、どろりとした嫌悪感がサッと広がった。(キス?ふざけないで!)彼女はコーヒーカップを震える手でテーブルに置き、あからさまに顔をしかめた。
なんで、こんな生理的な話を、わざわざ私の前でするわけ?美咲、本当に最低。凛華の胸の奥で、行き場のない怒りと、鋭いナイフで抉られたような寂しさが混ざり合い、真っ黒な感情となって渦巻いた。
(私がこんな気分になるなんて、やっぱりおかしい。悠真のことなんて、もうなんとも思ってない。興味もないはずなのに……)否定すればするほど、悠真のあの優しげな笑顔が脳裏にちらつく。あの笑顔がもう二度と自分には向けられないという残酷な事実が、彼女の喉元を締め付けた。
「へえ、そう。よかったね」
凛華は精一杯の虚勢を張ってそっけなく答えたが、内心の動揺は隠しようもなく広がっていた。
嫉妬?私が?まさか、ありえない。彼女は必死に自分に言い聞かせた。私の「凛華マインド」は、私という存在の核。これを曲げることは自己の崩壊を意味する。でも、心の奥底で、小さな、けれど無視できない声が囁く。(本当に、これでいいの?私が選んだ道なのに、どうして美咲の言葉が鏡みたいに、私の心の空っぽな場所を映し出すの?)
美咲は凛華の呼吸が乱れたことに気づいたが、あえて残酷なまでに明るく振る舞い続けた。(凛華、ちょっとは動揺してくれた?……お願い、私のことを嫌いにならないで。でも、気づいてほしいの)
悠真は耐えがたい気まずさに耐えかね、苦笑いを浮かべて話題を逸らそうとした。「えっと、さ、映画の話に戻るけど、あの潜水士の仲間、めっちゃカッコよかったよな……」
だが、凛華の頭の中は、もはや映画のことなど一欠片も残っていなかった。(キスしたって……。美咲、そんなことまで、私に……)美咲の無神経さに激しい苛立ちを感じると同時に、悠真の慈しむような笑顔が、今は別の誰かの所有物であるという事実に、言いようのない孤独を感じていた。
(おかしい、本当におかしいよ。私のルールは絶対。なのに、どうして……)凛華は冷めてきたコーヒーの苦味を舌の上に転がしながら、自分の中で何かが確実に変わり始めている恐怖に身を震わせた。
喫茶店の窓の外では、夕暮れが横浜の街を燃えるようなオレンジ色に染め上げていた。
三人の心は、重なり合うことなく、それぞれの思いを抱えたまま、不協和音を奏でていた。凛華は震える指先でカップを持ち、もう一口、泥のようなコーヒーを飲み込んだ。
これが私の望んだハッピーエンドなのよね?そう自分に言い聞かせ、逃げるように目を閉じる。しかし、瞼の裏に焼き付いた二人の親密な残像と、胸の奥のドロドロとしたモヤモヤは、消えるどころか熱を増していくばかりだった。
自分の誇りを貫く強さと、その代償として支払った耐え難い寂しさ。悠真の温もりが自分の隣にあった頃の記憶が、頭の片隅で消えかかった灯火のように、けれど確かに揺れていた。
変わるということは、自分を裏切ることなのか。それとも、この凍った心で誰かを愛することなのか。凛華は答えを出すのをやめ、力なくカップを置いた。
だが、彼女の心の奥で鳴り響く軋みは、静かに、しかし確実にその亀裂を広げ続けていた。いつか、この軋みが自分のすべてを打ち砕き、新しい自分へと変えるきっかけになるのかもしれない――凛華は、燃えるような夕焼けを見つめながら、遠い予感に震えていた。
喫茶店を出て悠真と別れた後、駅へと向かう道すがら、凛華と美咲の間に横たわる空気は、鉛のように重く沈んでいた。街灯が一つ、また一つと灯り、昼間の賑わいを冷たい夜の帳が覆い隠していく。
「……最低ね、あんた」
凛華が震える声で沈黙を破った。隣を歩く美咲は、相変わらず軽やかな足取りだったが、その瞳に宿る光はどこか鋭利だった。
「何が?キスしたこと?それとも悠真くんを呼んだこと?」「全部よ。わざわざ私の目の前で、不潔な話をして。親友なら、私の気持ちを少しは尊重しなさいよ」「尊重してるよ、凛華。だからこそ、現実を見せてあげたの。凛華が捨てた悠真くんは、今は私のもの。凛華が『気持ち悪い』って切り捨てた温度を、私は今、幸せだって感じてる」
美咲は立ち止まり、凛華を真っ向から見据えた。その視線には、かつての慈しみではなく、突き放すような冷徹さがあった。
「凛華の『マインド』なんて、ただの臆病者の言い訳だよ。傷つきたくないから、高い壁を作って一人で震えてるだけ。……そんなの、ハッピーエンドなんかじゃない」
「あんたに何がわかるのよ!」
凛華の叫びが夜の路地に響いた。視界が涙で歪む。それは悲しみというより、自分の核を否定されたことへの激しい拒絶反応だった。美咲は何も答えず、ただ悲しげに微笑むと、一人で駅の改札へと消えていった。
一人、夜の横浜を歩く悠真の足取りは重かった。美咲といるときは楽しい。彼女の明るさは本物で、凛華との間にあった息苦しい緊張感とは無縁だ。けれど、今日、凛華のあの凍りついた瞳を見た瞬間、自分の胸の奥がひどく疼いた。
(僕は、何を期待していたんだろう)
美咲と付き合うことで、凛華を忘れたつもりだった。あるいは、自分を拒絶した彼女への、無意識の意趣返しだったのかもしれない。だが、凛華が「どこまで進んだの」と聞いたときの、あの絶望を押し殺したような声が、耳から離れない。
(聖園さん、君は本当に、その孤独のままでいいの?僕を振ったあの日から、君の時間は止まったままなんじゃないのか)
美咲への罪悪感と、凛華への消えない執着。悠真は自販機で買った冷たい缶コーヒーを、熱を持った額に押し当てた。夜の海風が吹き抜け、彼の吐いた白いため息を闇へと連れ去っていく。三人の関係は軋み始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます