第2話 見えない理事長の代理人

理事会棟を出たとき、昼休みはちょうど終わっていた。

午後一限の予鈴が、校内に響き渡る。

中庭に立ち、俺は校舎を見上げる。

四階。一番右端の、あの窓。

噂では、星川堇は、そこから飛び降りたという。

そして今、俺は彼女の――

婚約者?代理人?操り人形?

自分でも、どう呼べばいいのか分からない。

ただ一つ確かなのは、今日から、俺の生活は俺のものじゃないということだ。

「遠野くん」

背後から、九条秘書の声がした。

振り返ると、彼女は一台の携帯端末を差し出していた。

真っ黒な筐体、装飾もロゴもない、無機質なデザイン。

「理事長専用の連絡端末です。システム通知、スケジュール、タスク管理、すべて、こちらを通して届きます」

画面が点いた。待ち受け画面は真っ黒で、中央にただひとつ、白い一文字。。

S。星川(S)のSだ。

「ちなみに」

「理事長は理事長は遅刻がお嫌いです」

「……は?」

「次の授業まで、あと三分ですよ」

一秒、固まり――

次の瞬間、俺は全力で走り出していた。

教室に飛び込んだ瞬間、チャイムが鳴る。

息を切らして席に着くと、

クラス中の視線が一斉に集まった。

好奇、同情、羨望。そして――

「こいつ、一体何があったんだ?」という困惑。

「なあ遠野」隣の席の佐藤健太(さっきの弁護士と同姓だが、多分無関係だ)が、小声で聞いてくる。

「呼び出しって何だった?先週、女子更衣室を盗撮したのがバレたとか?」

「してねえよ!」

「じゃあ、、屋上でタバコ吸ってた──」

「黙れ!」

教壇の教師が咳払いをし、教室が静まる。

俺は机に突っ伏し、腕に顔を埋めた。

頭の中は、ぐちゃぐちゃだ。

婚約。代理執行人。見えない理事長。植物状態の婚約者。

荒唐無稽にもほどがある。

あまりに現実味がなくて、まだ夢の中なんじゃないかと疑うほどだ。

そのとき、ポケットの中で、携帯が震えた。

こっそり取り出す。

画面に、新着メッセージ。

【システム通知】

本日のToDo:

1.17:00までに『代理執行人 適応性評価アンケート』提出

2.19:00までに『学園基礎制度学習・第一章』修了

3.22:00までに 翌日のスケジュール確認

未達成時のペナルティ:権限レベル低下/一部機能ロック

無機質で、冷たく、

一切の反論を許さない文章。

そして、その最下部に、小さな一行。――From S

S。星川堇。俺の婚約者。

一度も会ったことがない。そして、きっと永遠に会えない少女。

彼女は今、この小さな画面を通して――

俺の時間を、行動を、人生を支配している。

笑いたくなった、泣きたくもなった。

結局、俺は携帯をポケットに戻し、窓の外を見た。

青い空。ゆっくり流れる雲。すべてが、あまりにも平和だ。

それなのに、

俺の人生だけが、完全にひっくり返っていた。

「遠野くん」

教師の声で、現実に引き戻される。

「この問題に答えなさい」

黒板を見る。

複雑な数式。

……さっぱり分からない。

「分かりません」と言おうとした、その瞬間――

ポケットの中で、また携帯が震えた。

ちらりと見る。

画面には、簡潔で、無駄がなく、完璧な解法。

その下に、小さな文字。

「答えは42」

二秒、固まる。

それから立ち上がり、半信半疑で口にした。

「……42、ですか?」

教師はメガネを押し上げ、じっと俺を見つめ――

やがて、頷いた。

「正解です」

教室が、ざわめく。


席に座り直すと、手のひらが汗でびっしょりだった。

また、携帯が震える。

【システム通知】

補助解答機能 使用回数:1/3(本日残り)

備考:自己学力の早期向上を推奨します

   システム依存は評価スコア低下の原因となります

……理解した。

彼女は、助けているんじゃない。

試している。

彼女の用意した道具を、俺がどう使うのか。

どこまで依存するのか。

そして――

代理人として、俺は足りているのか。

その瞬間、ようやく腑に落ちた。

これは恋愛じゃない。

これは――

試験だ。

試験官は、病室のベッドに横たわり、

二度と目を覚まさない少女。

俺は机の下で、携帯をぎゅっと握りしめた。

画面の中の「S」が、

影の中で、かすかに光っている。

まるで――

目みたいに。

静かに。

ただ、俺を見つめていた。


放課後、俺はすぐには帰らなかった。

向かったのは、

学校図書館の最奥――校史資料区画。

そこに、ひとつの専用キャビネットがある。

ラベルには、こう書かれていた。

「星川堇 関連記録(非公開)」

鍵がかかっている。

だが今の俺は、理事長代理執行人だ。

権限がある。

黒い携帯を取り出し、

プリインストールされたアプリを起動。

ロックのスキャナーにかざす。

「ピッ」

短い音とともに、鍵が外れた。

中にあったのは、三つだけ。

分厚いノート。

きちんと綴じられた書類一式。

そして――

封筒。

真っ白な封筒。

文字は何もない。

封は赤い蝋で閉じられ、

複雑な家紋のような刻印が押されている。

俺は少し迷ってから、

まずノートを手に取った。

最初のページを開く。

字は、婚約書類とまったく同じ。

清楚で、端正で、

一画一画が、異様なほど真面目だ。

――

「もし、いつか私が

 ここを自分の手で守れなくなったら」

最初の一行は、そう始まっていた。

「そのときは、

 私の代わりになれる人を探してほしい」

「一番賢い人ではなく」

「一番強い人でもなく」

「――」

そこで、筆が止まっている。

墨が、わずかに滲んでいた。

書き手が、

ここで長く迷ったことが、はっきり分かる。

そして、続きを記している。

「一番、悔しがれる人を」

俺は、その一行を見つめた。

「悔しい」という三文字。

胸の奥のどこかが、

ちくりと痛んだ。

ページをめくる。

ノートには、

学園のあらゆるデータが記されていた。

予算配分。

人事構造。

制度の欠陥。

潜在的リスク。

異常なほど、詳細だ。

そして、

すべてのページの隅に、

小さな書き込みがある。

「ここは、もっと良くできる」

「ここは効率が悪すぎる」

「ここには、怠けている人がいる」

「ここは――変える必要がある」

俺は、思わず想像してしまう――

ひとりの少女が、

この図書館の片隅に座り、

たったひとりで、これらのノートを書いていた。

周囲には、誰もいない。

聞こえるのは、

ページをめくる音だけ。

ペン先が紙をなぞる音だけ。

彼女、ただひとり。

自分が心から愛しながら、

それでも一度も本当の意味で溶け込めなかった学園を、

静かに、守り続けていた。


最後のページを開く。

文字は、少し乱れていた。

それまでの几帳面さが、影を潜めている。

「彼らが来た」

それだけの言葉。

そして、大きな空白。

さらにその先は――

何もない。

ノートは、そこで終わっていた。

俺はノートを置き、

次に、その書類を手に取る。

『星陵学園 株式構造および理事会権限分析』

一ページ目を開いた瞬間、

俺は言葉を失った。

赤ペンで、十の名前が記されている。

それぞれの名前の横には、

役職、経歴、人間関係、資産状況、

そして――

とても表に出せないような『秘密』まで、

細かく書き込まれていた。

その十の名前の、さらに上。

ひときわ大きな文字で、こうある。


「敵」


そして、その横に添えられた小さな一文。

「だが、彼らは『必要の悪』でもある」

「より良い選択肢が見つかるまでは、共存するしかない」

――小林理事の言葉が、脳裏をよぎる。

「彼女は、このシステムを通して君を指導する」

指導。

なんて、穏やかな言葉だ。

だが、この書類にあったのは、

指導なんかじゃない。

戦争だ。

たった一人の女子高生が、

学園という巨大な権力構造に挑んだ、

孤独な戦争。


そして今――

その戦争の指揮権が、

俺の手に渡されている。

……彼女の顔すら、知らない俺に。


俺は書類を置き、

最後に、あの封筒を手に取った。

蝋封は硬く、

少し力を入れて、ようやく開く。

中に入っていたのは、一枚の紙。

いや、正確には――

写真の裏面だった。

俺は、ひっくり返す。

その瞬間、

息を止めた。

それは、インスタントカメラの写真。


少し色褪せて、

少しピンボケしている。


それでも、はっきり分かる。


――校舎の屋上に立つ、一人の少女。


風に煽られ、

長い髪が乱れている。


彼女は、カメラに背を向け、

遠くの空を見つめていた。

写真の右下に、小さな文字。

ノートと同じ、あの筆跡で書かれている。

「もし、やり直せるなら――」

そこで、文は途切れていた。

続きは、ない。

俺は、その写真を見つめる。

その背中を。

細く、儚く、

次の瞬間には風にさらわれてしまいそうなのに――

彼女は、まっすぐ立っている。

剣のように。

これが、彼女。

星川 堇。

俺の、婚約者。

妥協するくらいなら、

あそこから飛び降りることを選んだ少女。

なぜか、

目の奥が熱くなった。

理由は分からない。

俺は、彼女を知らない。

本当の意味では。

それでも――

この背中を見て、

この写真を見て、

誰にも見せなかった彼女を見て。

少しだけ、

分かった気がした。

彼女の孤独が。

彼女の執念が。

そして、狂気じみた責任感が。

携帯が、震えた。

取り出す。

【システム通知】

重要物品へのアクセスを検知

物品:星川堇 私人ノート

アクセス者:遠野一志

アクセス時刻:16:23

備考:権限確認済み/アクセス合法


その下に、

さらに小さな一行。

「見たのね」

疑問形じゃない。

断定だ。

彼女は、分かっていた。

俺がここに来ることも、

これらを見ることも。

すべて――

最初から、彼女の計画通り。

俺は図書館の片隅に座り、

窓の外が、ゆっくり暗くなっていくのを眺めた。

そして、携帯に文字を打つ。

「どうして、俺なんですか?」

送信。

数秒後、返事が来た。

【システム返信】

質問は現在の権限レベルを超えています

権限を昇格後、再度お尋ねください


いかにも、システムらしい返答。

でも――

分かっている。

その向こうにいるのは、彼女だ。

病室のベッドに横たわる少女。

すべてを計算し尽くした、

『見えない姫』。

俺は携帯をしまい、

ノート、書類、写真をキャビネットに戻す。

鍵をかける。

そして、その扉に向かって、

小さく呟いた。

「……やってみせます」

返事は、もちろんない。

それでも、

彼女の表情が、なんとなく想像できた。

もし、彼女が笑えるなら――

きっと、

ほんのりとした、淡い笑みだ。

図書館を出るころには、

空はすっかり夕闇に近づいていた。

校内は静まり返り、

数人の当番生徒が掃除をしているだけだ。

中庭に立ち、

俺は校舎の屋上を見上げる。

今は、誰もいない。

だが、二年前。

そこには、一人の少女が立っていた。

そして――

飛び降りた。

「もし、やり直せるなら――」

彼女は、何を言いたかったのだろう。

やり直せたら、飛ばなかったのか。

普通の二年生として、生きたかったのか。

それとも――

もう一度やり直しても、

俺を選んだのか。

分からない。

きっと、永遠に分からない。

携帯が、また震える。


【システム通知】

本日のタスク進捗状況:

1.アンケート提出:未完了(残り58分)

2.制度学習:未開始(残り2時間58分)

3.スケジュール確認:未開始(残り5時間58分)

警告:期限内に完了しない場合、

ペナルティプログラムを起動します


俺は、その文字を見つめた。

冷酷なカウントダウン。

そして、

思わず、笑った。

「分かってるって」

携帯に向かって言う。

まるで、彼女が聞いているみたいに。

「今から帰ってやるから。いいだろ?」

画面は、暗くなった。

返事は、ない。

でも、分かっている。

彼女は聞いている。

ずっと、聞いている。

今日から、この婚約者は、

常に俺のそばにいる。

見えなくて、触れられなくて、

それでも、どこにでもいる形で。

俺は振り返り、校門へ向かって歩き出す。

夕陽が、影を長く伸ばす。

その影の先に――

もう一つの影が、

そっと、重なった気がした。

淡くて、曖昧で、

それでも、確かにそこにある影。

彼女の影。

決して離れなかった――

「見えない婚約者」の影。

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見えないの婚約者 白狼九音 @diqiuqiuzhang

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