見えないの婚約者
白狼九音
第1話 終身刑と婚約の宣告
できれば、もう二度と理事会議室なんか訪れたくない。
初めて入ったその瞬間、俺は――
終身刑を宣告されたのだから。
しかも、婚約付きで。
事の発端は、あまりにも普通すぎる月曜日の朝だった。
三時間目が終わり、俺は昼飯をどうするかで真剣に悩んでいた。
コンビニの唐揚げ弁当にするか、それともどう見ても前日の使い回しにしか見えない学食のカレーか。
そんな人生の重要な選択をしている最中、教室の後ろのドアが叩かれた。
クラスメイトの適当なノックじゃない。
――コン、コン、コン。
妙に丁寧で、逆に不安になる音だった。
一瞬で教室が静まり返る。
黒板に数式を書いていた数学教師ですらチョークを止め、「来たか」という顔で後ろを振り返った。
……待て。
「来たか」ってどういう意味だ。
「二年A組、遠野一志くん、いるかな?」
教務の松本先生が、まるで死亡宣告でも読むかのような優しい声で呼びかけた。
俺は手を挙げながら、頭の中で高速反省会を始める。
提出物の遅れ、教師への口答え、廊下での全力疾走、
それから――先週の水曜、午前二時に俺がなぜ学校裏の通りにいたのか。
……いや、あれは本当に俺自身も説明できない。
結論。
多すぎる。
だからこそ怖い。
どれを追及されるんだ?
松本先生の後ろには、もう一人立っていた。
女性だ。
三十歳前後、仕立ての良いダークグレーのスーツ、後ろで一切の乱れなくまとめられた髪、細いフレームのメガネ。
その佇まいは、博物館でガラスケースに収められた精密機器を思わせた。
清潔で、正確で、触れてはいけない。
――知っている。
正確には、全校が「知っている」。
星陵学園・理事会秘書、九条 遥。
三分で年間予算を通し、五分で書類の論理破綻を見抜き、十分で制度に逆らう生徒を自主退学に追い込むという伝説の人。
その九条秘書が、今――俺を見ていた。
人を見る視線じゃない。
書類のバーコードを読み取るような目だった。
「遠野くん」
松本先生が、わずかな同情を含んだ声で言う。
「一緒に来てください」
「い、今ですか?」
俺は必死に抵抗する。
「次、体育で……一週間楽しみにしてたドッジボールが――」
「体育は臨時で自習になりました」
九条秘書が淡々と遮った。
まるで「今日は晴れです」と言うような口調で。
教室を見回すと、クラス全員が「ご愁傷さま」と言わんばかりの目を向けている。
前の席の山田なんて、胸の前でこっそり十字を切っていた。
……終わった。
俺は、本当に終わった。
理事会会議室は校内最奥、独立した白い三階建ての建物にある。
普段は完全に都市伝説マップ扱いだ。
入った生徒は、学生会の中枢になって人生勝ち組か、
あるいは転校して消息不明。
中間は存在しない。
実際に行ってみて分かった。
教室からそこに辿り着くまで、異様に長い廊下、誰も使わない中庭、三階分の螺旋階段。
……これは会議室なんかじゃない。
処刑場への導線だ。
「どうぞ」
九条秘書が扉を開き、無言で促す。
俺は深呼吸して、足を踏み入れ――
そして、固まった。
怖いものがあったからじゃない。
むしろ逆だ。
あまりにも、普通だった。
長い会議机、革張りの椅子、校訓の額、隅の観葉植物。
床に落机の上にはミネちる陽光は整いすぎている。
ラルウォーターが一直線。
ラベルの向きまで完璧だ。
――正常すぎて、異常。
向かいに三人が座っていた。
全員初対面だが、向こうは明らかに俺を知っている。
まるで届いたばかりの宅配を確認する目だ。
「座ってください、遠野くん」
中央の初老の男性が微笑む。
白髪交じりで整った髪、金縁メガネ。
公園で鳩に餌をやっていそうな穏やかさ――
ただし、人生の全パターンを把握しているような眼光を除けば。
俺は椅子に腰掛ける。
尻の三分の一だけ。
「まず自己紹介を」
男は言った。
「私は学園理事会の常務理事、小林健太郎(こばやし けんたろう)です。お二人は──」
「九条遥です。もうご覧になりましたね」九条秘書が軽く会釈した。
「法律顧問の佐藤(さとう)です」一番右に座った若い男性が眼鏡を押し上げた。「今日の一切の話し合いが、法的に適正な範囲内で行われることを確認する役目です」
……適正。
この単語が出る時点で、絶対にロクな話じゃない。
俺は唾を飲み、先手を打つ。
「あの……先週水曜の深夜二時の件なら――」
「違います、我々は君がその時間に何をしていたか知りません」
小林理事が即座に否定した。
「しかし、今、あなたが話しましたね」九条秘書が静かに付け加えた。「記録しておきましょうか?」
「い、いいえ!結構です!」
小林理事は書類を一枚、俺の前に滑らせた。
「遠野くん、本日より、君は──」
彼は一呼吸おいた。
まるで、僕が心の準備ができているか確認しているようだった。
確かに準備はできていた。
「退学処分」「無期停学」「学校のガラス損害賠償」などという言葉を聞く覚悟はできていた。
だが――
次に聞く言葉に対する準備は、絶対にできていなかった。
「――本校理事長の、婚約者に指定されました」
……は!?
「先生、今日はエイプリルフールじゃないですよね」
俺は真顔で言った。
「冗談にしても悪質すぎます」
小林理事の微笑みは変わらない。
佐藤弁護士は眼鏡を押し上げた。
「書類はすでに公正証書化されており、完全な法的効力を有します」
「婚約は、既に成立しています」
九条秘書が優しく補足した。
……成立?
俺はその書類を取り上げた。
紙は厚手で、手触りは滑らかだ。学校の公印、公証人の印、理事会の印……右下にはびっしりと赤い印影が押されていた。
理性の可能性を必死に探る。
「あの……理事長の……娘さん?」
「違います」
「ご親族?」
「でもない」
「じゃあ……?」
小林理事は、ほとんど哀れむような顔をした。
「理事長ご本人です」
空気が、凍りついた。
俺は口を開いた。
けれど、声が出なかった。
だって俺の認識では――
「理事長」という役職は、たいてい
白髪交じりで、和服を着ていて、入学式の壇上で「青春だの努力だの未来だの」を語る
そういうおじいさんのものだ。
少なくとも――
こんなはずじゃない。
「ちょっと待ってください!」やっとの思いで声を絞り出した。。
「うちの学校の理事長って……竜門のおじいさん、じゃありませんでしたっけ?」
「星川 竜門前理事長は、二年前に退任されています」
九条秘書は事務的に答える。
「現理事長は、株主総会により選出され、学園株式の五五%を保有しています」
「でも――」
「こちらです」
九条秘書は、細くて長い指で、書類の一行を軽く示した。
整った字体。
癖のない、真っ直ぐな筆致。
横線も縦線も、驚くほど正確で、
一画一画に、ほとんど執念に近い丁寧さが宿っている。
――字が、やたら綺麗だ。
一目で分かる。
この字を書く人間は、
「適当」という言葉を人生から排除しているタイプだ。
俺は、その名前を知っている。
当然だ。全校生徒が知っている。
なぜなら――
成績ランキングで、常に一位にあったから。
奨学金名簿の、必ず一番上に載っていたから。
そして何より、この学園最大の謎だったから。
彼女は、二年前。
校舎の屋上から飛び降りた、あの二年生の少女。
星川 堇。
「……ちょっと待って」
俺は、やっと声を取り戻した。
ただし、喉を誰かに掴まれているみたいな、ひどく掠れた声だった。
「俺の記憶が正しければ、この人は今──」
「植物状態です」佐藤弁護士が、淡々と続きを引き取る。
「意識不明、意思疎通不能、長期入院中。最新の医療報告によれば、回復の可能性は0.3%未満です」
頭が「ガン」と鳴った。頭の中で、その瞬間、俺は本気で疑った。
これは何かの悪質な社会実験番組で、今この瞬間も無数の隠しカメラが俺を撮っていて、
「どこで壊れるか」を観察されているんじゃないか、と。
「じゃあ……婚約は、どうやって――」
「事故前に、本人が署名しています」
九条秘書は書類を、俺のほうへ静かに押し出した。
「署名は本人のもの。筆跡鑑定済み。署名時の精神状態も正常。完全に法的効力があります」
俺は、視線を落とす、そこにある三文字。
星川 堇。
筆圧は安定している。震えは、一切ない。
これは、無理やり書かされた字じゃない。
これは、いつかこうなることを、最初から分かっていた人間が、
覚悟を持って書いた字だ。
「それから」
小林理事が、まるで「今日の昼はカレーです」と告げるみたいな調子で続けた
――もっとも、俺はもう一生、まともに昼飯が食えない気がしていたけれど。
「本日付で、君にはもう一つの役職が与えられます」
一拍。この沈黙が、やたら長い。
長すぎて、俺は本気で立ち上がって逃げたくなった。
「――星陵学園・理事長代理執行人」
椅子から、ずり落ちかけた。
「だ、代理……なんですって?」
「簡単に言えば」
小林理事は微笑んだ。
「彼女が行使できない権限を、君が代行する。彼女が下せない決断を、君が代わりに行う。彼女が出席できない場には、君が代理で出席する」
「ちょっと待ってください。その『代理執行人』って、具体的に何を――」
佐藤弁護士が、別の書類を開く。
「星陵学園理事会章程に基づき、理事長代理執行人は以下の権限を有します。
一、理事会決議への参加。
二、予算および人事異動の承認。
三、理事長名義での書類署名。
四、――」
「ストップストップストップ!」
俺は慌てて遮った。
「それ、どう考えても……理事長本人の仕事ですよね!?」
「その通りです」小林理事がうなずいた。「理事長ご本人が、それらの職務を果たせないからです」
「でも俺、ただの学生ですよ!?」
ほとんど叫んでいた。
「自分の小遣いすら管理できないのに、、学校の予算を管理しろと!?」
「必要な研修とサポートは提供します」
九条秘書が言う。
「また、すべての決定はシステムによる検証を経て、理事長の『事前設定された意志』と照合されます」
「……事前設定?」
俺はその言葉に引っかかった。
「彼女、今は植物状態ですよね?意志も何も――」
会議室が、一瞬だけ静まり返った。
ほんの一秒。けれど、妙に重い一秒。
小林理事と佐藤弁護士が、視線を交わす。
九条秘書はメガネを押し上げ、反射したレンズが表情を隠した。
「星川理事長は、事故前に」小林理事がゆっくりと口を開いた。「一連の完全な『意向管理システム』を残されています。彼女はそのシステムを通じて、君に……指導を行うでしょう」
「指導?」俺はその言葉を繰り返し、不吉な予感がした。
「ええ」小林理事は、にこやかに言った。
「彼女本人が君と直接話すことはできませんが、その意思は、制度とプロセス、そしてシステムのプロンプトを通じて、君に伝えられます」
……分かった。
これは恋愛じゃない。
運命的な出会いでもない。
ましてや、ロマンチックな話なんかじゃない。
これは――
俺の人生そのものを、丸ごと、二度と返事をしない相手に預ける行為だ。
彼女は頷かない。拒まない。
「好き」とも言わないし、「ごめん」とも言わない。
ただ、既に発効した制度を通じて、
静かに、俺を前に進ませるだけ。
そして俺には、逃げる方向すら残されていない。
俺は顔を上げ、乾いた声で、最後の質問をした。
「……もし、俺が拒否したら?」
三人は、同時に黙った。
佐藤弁護士が条文を探すように書類をめくり、
九条秘書は、かすかにため息をついた。
小林理事は少し考えてから、ほとんど優しいと言っていい笑みを浮かべた。
「では、『星陵学園生徒心得』に基づき、理事会の任命を拒否した生徒は、本校での在籍資格を失います」
一拍。
「また、婚約が既に成立している以上、一方的な破棄は、法的責任および――」
「……賠償、ですか?」
「星川理事長が保有する学園株式の評価額は、現在およそ四百二十億円です」
佐藤弁護士はメガネを押した。
「婚約者である君は、理論上その一部権利を有します。ですが、能動的に破棄した場合――」
謀はかったな!
彼は、それ以上言わなかった。
でも、意味は十分すぎるほど伝わった。
俺、遠野一志。
どこにでもいる普通の高校二年生。
月の小遣い三千円。一番高価な財産は、三年乗ってる自転車。
――そんな俺が、十回人生をやり直しても稼げない額を、背負うかもしれない。
椅子に座ったまま、世界がぐるぐる回る。
窓の外は、やけに平和だった。
グラウンドからは、体育の笛と笑い声。
廊下では、教師の足音が忙しなく行き交っている。
すべてが、いつも通り。あまりにも、普通。
なのに、俺の人生だけが、この何でもない月曜の朝に、
完全に、拉致された。
一度も会ったことのない。
そして、たぶん永遠に会えない少女に。
「他に質問は?」小林理事が尋ねる。
俺は口を開いた。
聞きたいことは山ほどあった。
――なぜ、俺なんだ。
――彼女は、どんな人だったんだ。
――その『意志管理システム』って何なんだ。
――今ここで泣いたら、笑われるだろうか。
でも、最後に出たのは、たった一つだった。
「……彼女の写真、見せてもらえませんか?」
三人が、同時に固まった。
やがて、小林理事はゆっくり首を振る。
「残念ながら。星川理事長ご本人は……写真を撮られることを極度に嫌われていました。学園内には彼女の写真は一枚もありません」
「……一枚も?」
「一枚も、ありません」
「じゃあ……みんな、どうやって顔を――」
九条秘書が、静かに言った。
「それが、問題なのです」
彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄り、背を向けたまま続ける。
「全校生徒が、『星川堇』という名前を知っています」
「永遠の一位だということも」
「二年前に飛び降りた少女だということも」
そして、振り返り、
メガネの奥の視線を、真っ直ぐ俺に向けた。
「――ですが、誰一人として」
「彼女を、本当に見た者はいません」
その瞬間、俺は思い出した。
学園に昔からある噂。
『見えないお姫様』。
成績優秀、容姿端麗、学園の真の支配者。
何らかの理由で姿を現さず、すべてを代理人に任せている存在。
実はもう死んでいて、意志だけが学校を動かしている。
あるいは、AIなのではないか――という話。
ずっと、それがただの退屈な学校の怪談だと思っていた。
でも、今なら分かる。
――全部、本当だったのだ。
そして今、俺はその怪談の一部になった。
「時間ですね」小林理事は腕時計に目を落とし、言った。
「遠野くん。こちらにサインを」
彼が差し出してきたのは、別の書類だった。
『理事長代理執行人 任命確認書』
ペン先が紙の上で揺れ、なかなか下りない。
「ついでに言うと」佐藤弁護士が突然。
「署名を拒否した場合、退学手続きは午後から開始されます」
俺は彼を見た。
彼は「私は事実を述べているだけです」とでも言いたげな、穏やかな笑みを返してきた。
……ちくしょう。
俺は奥歯を噛みしめ、ペン先を下ろす。
遠野 一志。
自分の名前が、星川 堇の隣に記された。
二つの名前が、並んでいる。
まるで、あり得ない記念写真みたいだった。
「結構です」小林理事は書類を回収する。
「それでは、ただいまより君は、星川理事長の婚約者、兼、代理執行人です」
彼は立ち上がり、手を差し出した。
「星陵学園の中核へようこそ、遠野くん、いえ、理事長代理執行人」
俺は、その手を見た。
穏やかな笑顔。
俺の人生を、完全に書き換えたこの部屋。
そして――
俺は、非常に大人げないことをした。
その手を握り――
全力で、握り返した。
小林理事の表情が、一瞬だけ歪む。
だが、彼は手を引かなかった。むしろ、笑った。
その笑顔の中には、俺には理解できない何かがあった。
賞賛のようで、期待のようで、そして――
「ゲーム開始だ」
そう言っているような、笑みだった。
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