第7話 戻れなかった者
〈次は、誰を返す〉
その一文を、私は何度も読み返した。
問いではない。
命令でもない。
だが、選択の余地がないことだけは、はっきりと分かる文章だった。
まるで、すでに答えが決まっていて、それを確認するためだけに書かれた言葉のようだ。
私は、椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。
頭の奥で、何かが軋むような音を立てている。
妹の死について、私はこれまで「分からなかった」という立場を取ってきた。
不可解な事故。
警察もそう結論づけた。
沼での転落。夜間。足を滑らせただけ。
だが、それは「説明として都合がいい」というだけの話だ。
本当に分からなかったのは、
なぜ妹が、あの夜、そこにいたのか。
なぜ、町を離れるはずだった彼女が、沼へ向かう道を選んだのか。
私は、資料の束を引き寄せた。
過去の失踪事件、沼入の記録、断片的な証言。
ある共通点が、はっきりと見えてきていた。
戻ってきた者。
完全には戻らなかった者。
そして、戻りかけた者。
町は、戻ってきた者を排除しない。
完全に馴染まなかったとしても、沈黙を守る限りは、許容する。
だが――
「戻りかけた者」だけは、違った。
町の論理を理解しかけ、しかし拒否した者。
内側に入りかけて、境界を踏み越えなかった者。
そういう存在は、最も危険だった。
妹は、その条件に、あまりにも当てはまりすぎている。
彼女は、この町を嫌っていた。
だが、完全に切り捨てることもできなかった。
私が取材で戻ると言ったとき、妹は少し考えてから、同行を申し出た。
「最後に、ちゃんと見ておきたいから」
あのときの言葉の意味を、私は理解していなかった。
最後に、何を?
ノートをめくると、妹との会話が断片的に書き留められている。
記者としての習慣だ。身内との雑談ですら、言葉にして残してしまう。
〈ここ、空気が重い〉
〈みんな、同じ話し方するよね〉
〈優しいけど、線を引いてる〉
そして、最後のページ。
〈私、ここにいると、昔の自分に戻りそうで怖い〉
その一文を読んだとき、胸が締め付けられた。
妹は、「戻る」ことを恐れていた。
町の論理に、飲み込まれることを。
私は、録音機を手に取った。
聞いた音声の続きが、まだ残っている。
再生ボタンを押す。
水音。
虫の声。
夜の沼特有の、音が吸い込まれるような静けさ。
「……ねえ」
妹の声だ。
少し、震えている。
「この町、やっぱり変だよ」
私は、唇を噛んだ。
次に来る自分の声を、聞きたくなかった。
「昔から、こうなんだ」
落ち着いた声。
感情を抑え、説明する口調。
「変だと思うのは、外に出たからだ」
「じゃあさ……」
妹は、言葉を選んでいる。
「“選ばれる”って、何?」
一瞬、沈黙があった。
その沈黙が、異様に長く感じられる。
「……誰かが、決めることだ」
私の声が、そう答えていた。
「誰が?」
「町だ」
妹は、笑ったようだった。
だが、その笑いは、すぐに途切れる。
「町って、誰?」
録音は、そこで止まっていた。
私は、再生を止め、深く息を吐いた。
あのとき、私は何を知っていたのか。
それとも――何も知らない“ふり”をしていただけなのか。
机の上の古文書に、再び視線を落とす。
沼入の名簿が途切れた年代。
そこに、奇妙な注記があった。
〈以後、対象は記録せず〉
〈確認者のみ、把握すること〉
確認者。
その言葉が、胸に引っかかる。
確認する者。
記録する者。
残す者。
私は、自分のノートを見た。
妹の名前の横に、小さく書かれた文字。
〈確認済〉
その意味を、これ以上、誤魔化すことはできなかった。
妹は、選ばれたのではない。
「戻れなかった」のだ。
町の内側に入ることも、外に出ることもできず、境界で立ち止まった。
その状態は、この町にとって、最も不安定で、最も排除すべき存在だった。
では――
誰が、それを確認したのか。
私は、喉が渇くのを感じた。
録音機は、まだ動いている。
再生されていない時間の中で、微かな呼吸音が残っている。
それは、私の呼吸だった。
だが、同時に、私のものではないようにも感じられた。
私は、ノートを閉じた。
真実に近づいている感覚は、確かにある。
だが、それは、救いではなかった。
むしろ、
「戻れない場所」に、自分が立っていることを、
静かに突きつけられているだけだった。
窓の外を見ると、遠くに沼がある。
夜の中で、水面は見えない。
だが、私は分かっていた。
あそこには、まだ何かが残っている。
記録されなかったもの。
返された者たち。
そして――
次に、誰を返すのかを、
確かめようとしている存在が。
私は、ゆっくりとペンを取った。
書かなければならない。
書くことでしか、ここから先へ進めない。
そう思った理由を、
私は、まだ言葉にできなかった。
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