第6話 記録
私は、録音機の電源を切ったまま、しばらく動けずにいた。
机の上には、取材ノート、古新聞のコピー、町役場から借りた資料。それらが、まるで最初から配置されていたかのように整然と並んでいる。昨夜、自分がここで何をしていたのか、記憶は曖昧だった。
だが、机の引き出しを開けたとき、決定的な違和感があった。
町史編纂委員会――そう書かれた封筒が、そこに入っていた。
私は、その封筒を手に取った。
紙は新しい。最近使われたものだ。
だが、私には、それを受け取った記憶がなかった。
中身は、古い文書のコピーだった。
明治期のものらしい。墨書きの文字を、現代文に書き起こした注釈付きの資料だ。町役場の印もある。
〈沼入(ぬまいり)之儀〉
見出しを読んだ瞬間、胸の奥が冷えた。
沼入――それは、私が子供のころに聞いたことのある言葉だった。大人たちは決して詳しく語らなかったが、「昔の風習」「もうない話」として、時折、囁かれるように出てくる。
資料を読み進める。
内容は、簡潔だった。
町の秩序を乱す恐れのある者、血筋に問題のある者、共同体に害をなすと判断された者を、「水に返す」儀式についての記録。
処刑、という言葉は使われていない。
代わりに、こう書かれていた。
〈当人の意思により、夜半、沼へ入る〉
私は、鼻で笑いそうになった。
意思により?
そんなものが、どこにある。
だが、読み進めるうちに、別の点が気になってきた。
名簿だ。
沼入を行った者の名が、年代順に記されている。
人数は多くない。数年に一度、あるいは十年に一度。だが、確実に、記録されている。
そして、ある時代から、書き方が変わっていた。
〈沼入之儀、記録不要トス〉
理由は、書かれていない。
その一文を境に、名簿は消えた。
私は、資料を置き、深く息を吐いた。
この町が、何かをしてきたことは、もはや疑いようがない。
だが、それと連続殺人、そして妹の死を、どう結びつけるべきなのか。
私は、町役場に向かうことにした。
この資料を、誰が、いつ、私に渡したのかを確認するためだ。
役場の資料室は、薄暗く、埃の匂いがした。
担当者は、私の顔を見るなり、少し困ったような表情を浮かべた。
「もう一度、あの資料をご覧になりたいと?」
「ええ。昨日、お借りしたものです」
担当者は、首を傾げた。
「昨日……ですか?」
嫌な予感がした。
「あなたが来られたのは、一週間前ですよ」
私は、言葉を失った。
「そのとき、これ以上の貸し出しはできない、とお伝えしました。例の連続事件と結びつけるのは、控えてほしい、と」
私は、笑おうとした。
冗談だ、と言おうとした。
だが、喉が動かなかった。
「では、この資料は?」
私が封筒を差し出すと、担当者は、それを見て、顔色を変えた。
「……それは、持ち出し禁止のものです」
「誰が、私に?」
担当者は、しばらく沈黙した後、低い声で言った。
「あなたです」
世界が、ぐらりと揺れた。
「一週間前、あなたは言いました。この町の記録は、書いた者の意志だけで成り立っている、と」
私は、その言葉を、どこかで聞いた気がした。
いや、読んだのかもしれない。
あるいは――話したのか。
役場を出ると、空はさらに暗くなっていた。
雲が垂れ込み、今にも雨が降りそうだった。
私は、古文書のコピーを持ったまま、町を歩いた。
人々の視線が、いつもより重く感じられる。
――あの人、戻ってきたのね。
――また、調べてる。
そんな囁きが、実際に聞こえたのか、それとも想像なのか、判別がつかなかった。
家に戻り、資料を机に並べる。
私は、一つの仮説に辿り着いていた。
この町は、記録を管理しているのではない。
記録そのものを、作り替えている。
そして、その役割を担う者が、代々、存在してきた。
――書く者。
記録し、残し、不要になれば消す。
それは、表向きの役職ではない。
だが、町が存続するために、必要な存在。
その夜、私は、再び録音機を手に取った。
自分が、何を話しているのかを確かめるために。
再生された音声は、昨夜の続きだった。
「……記録が残る限り、町は壊れない」
低く、落ち着いた声。
理路整然としている。
「殺したのではない。戻しただけだ」
私は、再生を止めた。
その瞬間、頭の中で、何かが繋がりかけた。
だが、完全な形になる前に、恐怖が先に立った。
もし、この声の主が、
町の“書く者”だとしたら。
そして、その声が、
私自身のものだとしたら。
私は、いつから――
この町のために、書いてきたのだろう。
机の上の古文書に、視線を落とす。
そこに書かれた文字が、
ゆっくりと、私の筆跡に見えてきた。
ページの余白に、見覚えのない一文があった。
〈次は、誰を返す〉
私は、その文字から、目を逸らせなかった。
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