第5話 精神科医

沼の水面から目を離したとき、私は自分がどれほど長くそこに立ち尽くしていたのか分からなかった。


 空はすでに夕闇に沈みかけ、湿った風が頬を撫でている。背中に感じていたはずの視線は、いつの間にか消えていた。だが、それで安堵したかと言えば、そうではない。むしろ、何もいなくなったことの方が、強い不安を呼び起こした。


 水面に映っていた顔が、まだ脳裏に残っている。


 あれは、確かに私だった。

 だが、同時に、私ではなかった。


 帰宅してからも、違和感は消えなかった。手を洗い、服を脱ぎ、机に向かう。その一連の動作が、誰かの指示に従って行われているような感覚。自分の身体が、ほんの少し遅れてついてくる。


 記者としての習慣で、私はノートを開いた。今日見聞きしたことを、言葉に変換しようとしたのだ。文字にしてしまえば、曖昧な感覚は輪郭を持ち、制御できる――そう信じてきた。


 だが、ページの余白に、すでに文字があった。


 走り書きのメモ。

 乱れた筆圧。

 強調するように引かれた二重線。


 〈沼は見ている〉

 〈町は忘れない〉


 自分の字だった。疑いようがない。

 それなのに、書いた記憶がなかった。


 私は、ゆっくりとノートを閉じた。

 否定することは、できなかった。


 その夜、眠れなかった。目を閉じると、沼の水面が浮かび、そこに映る顔が、微妙にずれて見える。口が動く。だが、音が聞こえない。代わりに、頭の奥で、誰かが囁く。


 ――確認しろ。

 ――確かめろ。


 何を、とは言われない。

 それが、かえって恐ろしかった。


 翌朝、私は決断した。


 精神科医にかかる。

 その判断は、理性的なもののように思えた。連続殺人、妹の死、地元取材。客観的に見れば、心身に負荷がかかっていて当然だ。自分が壊れているかもしれない、という仮説を検証するのは、記者として自然な行動だった。


 町から少し離れた場所に、古い診療所があった。白い外壁はくすみ、看板の文字もところどころ剥げている。だが、妙に「長くそこにある」感じがした。


 待合室には、私一人しかいなかった。

 壁の時計の音が、やけに大きく響く。


 診察室に通されると、医師はすでに席に着いていた。私より少し年上だろうか。穏やかな顔立ちで、眼鏡の奥の視線は、観察というより受容に近い。


 「今日は、どうされましたか」


 私は、準備してきた説明を口にした。眠れないこと、集中力の低下、仕事のストレス、身内の死。言葉は淀みなく出てきた。何度も頭の中で繰り返した文章だからだ。


 医師は、黙って頷きながら聞いていた。


 「幻聴はありますか」


 一瞬、迷った。

 だが、ここで曖昧にすれば、何も始まらない。


 「声を、聞いたような気がすることはあります」


 医師のペンが、止まった。

 ほんの一瞬だが、確かに。


 「どんな声ですか」


 「はっきりした言葉ではありません。呼ばれたような……確認しようとすると、消える」


 沼の話はしなかった。

 町の因習も、妹の違和感も。

 それらを語った瞬間、すべてが妄想として整理されてしまう気がした。


 「自分の声に聞こえることは?」


 その質問は、唐突だった。

 だが、不思議と、核心を突かれた感じがした。


 「……分かりません」


 私は、視線を逸らして答えた。

 それが、嘘かどうか、自分でも判断できなかった。


 診察は淡々と進んだ。急性ストレス反応、軽度の解離症状、睡眠障害。医師は可能性を挙げるだけで、断定はしなかった。


 「現実感が薄れることは?」


 「あります」


 街を歩いていて、突然、自分がそこにいないように感じる。音が遠のき、景色が平面になる。自分が、誰かの記録映像を見ているだけの存在のように思える。


 「自分が、自分でないように感じる?」


 私は、頷いた。


 「それは、異常ではありません」


 医師は、穏やかに言った。


 「人は、耐えきれない情報や感情に直面すると、それを切り離すことがあります。あなたは、まだ現実と繋がっています」


 切り離す、という言葉が、胸に残った。


 診察の終わりに、簡単な心理検査を受けた。直感で答える質問。私は、正直に答えたつもりだった。


 ――記憶に抜け落ちがあると感じますか。

 「はい」


 ――自分の行動を思い出せないことがありますか。

 少し迷ってから、「いいえ」。


 ――自分の中に、複数の自分がいると感じたことはありますか。

 私は、ペンを止め、「分からない」と書いた。


 医師は、それを見て、表情を変えなかった。


 「今日は、ここまでにしましょう」


 軽い睡眠導入剤が処方された。依存性は低い、と説明された。


 診療所を出ると、空はどんよりと曇っていた。

 沼のある方角に、低い雲が溜まっている。


 その夜、私は薬を飲み、久しぶりに深く眠った。

 夢は、見なかった――はずだった。


 だが、目覚めたとき、喉がひどく痛んだ。

 声を出し続けた後のような、鈍い痛み。


 枕元に、録音機が置かれていた。


 私は、それを置いた記憶がない。


 再生ボタンを押す指が、わずかに震えた。

 流れてきた声は、低く、落ち着いていて、はっきりとしていた。


 「……町は、まだ覚えている」


 続いて、紙をめくる音。

 ペンで何かを書く音。


 そして、静かな独白。


 「次は、沼だ」


 私は、再生を止めた。

 考える必要はなかった。


 なぜなら、その声は、

 私が記事を書くときに使う声そのものだったからだ。

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