第4話 沼の町


 この町は、地図よりも古い。


 そう言うと大げさに聞こえるかもしれないが、実際、ここでは地図に載らないものの方が、人々の行動を強く縛っている。名字、血筋、家の位置、沼との距離。そうした要素が、目に見えない序列を作り、誰が内側で誰が外側かを、無言のうちに決めてしまう。


 私はこの町で生まれ育ったが、完全に「内側」の人間だったとは言い難い。家は旧家ではなく、親戚づきあいも希薄だった。子供のころから、沼の話は数多く聞かされたが、どれも決まって、最後は笑い話にされていた。


 ――夜に声を聞いたら、振り返るな。

 ――沼は、持ち主を覚えている。


 そんな言葉を、私は迷信として処理してきた。記者という職業は、そうした曖昧なものを切り捨てることで成り立っている。切り捨てられないものは、記事にならない。


 だが、取材を進めるうちに、奇妙な違和感が積み重なっていった。


 連続殺人の被害者たちは、いずれも旧家と何らかの形で接点を持っていた。直接の血縁ではない。だが、土地の貸し借り、婚姻、養子縁組、あるいは過去の「なかったことにされた出来事」。細い糸のような関係が、確かに存在していた。


 古老の一人は、酒に酔った勢いで、こんなことを口にした。


 「昔はな、血が濁ると沼に返したもんだ」


 返す、という言い方が気になった。

 捨てるでも、殺すでもない。

 返す――まるで、最初から沼の所有物であったかのような響きだ。


 問い詰めると、古老は急に口を閉ざし、「もうそんな時代じゃない」と繰り返した。その目は、過去を否定しているというより、今も続いている何かから目を逸らしているように見えた。


 妹の顔が、脳裏をよぎった。


 彼女は、この町に似合わなかった。

 それは外見の問題ではない。考え方、言葉の選び方、沈黙への耐性。どれを取っても、彼女はこの町の空気を拒絶していた。


 ――ここ、息が詰まる。


 そう言ったときの妹の声を、私はよく覚えている。

 あのとき、私は笑って流した。

 今思えば、それは警告だったのかもしれない。


 沼へ向かう道を歩くと、空気が変わる。湿り気を帯び、音が吸い込まれていく。足音がやけに小さく感じられ、自分の存在が薄くなっていくような錯覚に陥る。


 私は立ち止まり、水面を見下ろした。


 そこには、空と木々と、そして私自身が映っている。

 だが、その像はわずかに歪んでいた。波が立っているわけではない。歪んでいるのは、水ではなく、私の認識の方なのだと直感した。


 ふと、背後で音がした。


 振り返る前に、私は思い出していた。

 ――夜に声を聞いたら、振り返るな。


 だが、その声は、外から聞こえたものではなかった。


 「ここは、昔からそういう町なんだ」


 いつの間にか、隣に人が立っていた。

 旧家の関係者だった。彼は沼を見つめながら、淡々と言う。


 「誰かが悪いわけじゃない。そうしないと、町が保たなかった」


 私は、その言葉に寒気を覚えた。

 保つために、何をしたのか。

 誰を、どうしたのか。


 問いは、口に出さなかった。

 出した瞬間、自分もまた「外」に追いやられる気がしたからだ。


 帰り道、私は確信していた。


 この町は、何かを隠している。

 そして、その「何か」は、妹の死と無関係ではない。


 だが同時に、もっと不吉な考えが、胸の奥で芽生えていた。


 ――本当に、この町だけの問題なのだろうか。


 沼の水面に映る自分の顔が、

 一瞬、他人のもののように見えた。

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