第3話 妹の死
「妹の死」
妹の死について、私はこれまで幾度となく文章にしてきた。
新聞記事として、取材メモとして、そして誰にも見せない覚え書きとして。だが奇妙なことに、それらを読み返すたび、そこに書かれている「妹」が、少しずつ違う。背の高さが変わり、声の調子が変わり、笑い方が変わる。まるで私は、毎回別の人間の死を悼んでいるかのようだった。
妹は、あの町を嫌っていた。
理由を問うと、彼女は決まって曖昧に笑い、「なんとなく」と答えた。その「なんとなく」の中に、私は何も見ようとしなかった。兄として、記者として、見るべきものから目を逸らす術だけは、身につけていたからだ。
事件の夜、妹は一人で出かけた。
どこへ行くのか、誰と会うのか、私は詳しく聞かなかった。聞かなかったのではない。聞く必要がないと思い込んでいた。
夜更け、電話が鳴った。
受話器の向こうの声は、妙に事務的で、感情がなかった。その無機質さが、かえって現実感を奪った。私は、何度も聞き返した。相手は同じ言葉を、同じ調子で繰り返した。
――沼へ続く路地で、女性の遺体が発見された。
現場へ向かう途中、私は奇妙な既視感に襲われた。道順も、街灯の位置も、夜の匂いも、すべてが知っているように感じられた。だがその感覚に、理由はなかった。少なくとも、その時の私はそう思っていた。
妹は、静かに横たわっていた。
暴行の痕、争った形跡。警察はそう説明した。私は頷き、必要な質問をし、必要なメモを取った。泣かなかったわけではない。ただ、泣くという行為が、どこか他人事のように感じられた。
奇妙だったのは、耳だ。
現場に立った瞬間、私は強烈な違和感を覚えた。音が、足りない。虫の声も、風の音も、あまりにも控えめだった。その代わり、別の何かが、耳の奥でざわついていた。
――聞かなかったことにして。
誰かが、そう言った気がした。
妹の声だったのか、それとも――
私は、その続きを考えるのをやめた。
通り魔事件という結論は、あまりにも都合が良かった。犯人はすでに死亡。動機不明。再発の恐れなし。町は平穏を取り戻し、私もまた、日常へ戻った。
戻った、はずだった。
だが最近になって、思い出せないことが増えている。事件の夜、妹と最後に交わした会話。現場に着くまでの時間。
思い出そうとすると、必ず耳鳴りがする。
まるで、脳が意図的に拒絶しているかのようだ。
私は、ある疑問を抱き続けている。
なぜ、妹は一人で沼の方へ向かったのか。
なぜ、私はそれを止めなかったのか。
そして――なぜ、あの夜の「声」を、これほど鮮明に覚えているのか。
妹は、何かを知っていたのではないか。
そう考えた瞬間、胸の奥が、ひどく痛んだ。
痛みは罪悪感によく似ているが、決定的に違う。
それは、思い出してはいけないことを、すでに思い出しかけている者の痛みだった。
私は、まだ知らない。
だが確信だけは、静かに育っている。
妹の死は、終わった出来事ではない。
それは今も、私の中で、音を立てている。
――耳の奥で。
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