第5話 火の手 前編

 その夜、村は静かだった。

 結界柱はいつも通り淡い光を空へ伸ばし、畑の匂いがまだ土に残っている。

 禍鬼の唸り声もなく、戸を閉めた家々からは寝息だけが漏れていた。


 ユウマは村外れの納屋で、粗末な藁布団にくるまりながら、浅い眠りと覚醒のあいだを漂っていた。


(……眠れねぇな)


 薄く目を開けると、木の壁の隙間から夜気が入り込んでくる。

 湿った土と藁の匂い。遠くで、結界柱の微かな脈動だけが聞こえる。


 前の世界のことを、ふと思い出す。


 婚約者と親友の浮気。

 会社でのスケープゴート。

 最後は、少女を助けようとして誤解され、そのまま車のライトに飲み込まれた。


(……あのときも、やたら鉄くさい匂いがしたっけな)


 自嘲を込めて目を閉じかけた、そのときだった。


 きし、と、木が割れるような音が足元から伝わってくる。

 続いて、鼻を刺す鉄の匂い。

 ほんの少し遅れて、人の叫び声が夜を裂いた。


「——禍鬼だぁぁっ!!」


 鐘の音が鳴り響く。

 胸の奥が、冷たい手で掴まれたように縮んだ。


 ユウマは跳ね起き、扉を乱暴に押し開ける。


 夜空は雲に覆われ、月は出ていない。

 代わりに、村の南——五番柱の方角で、橙色の光が不規則に揺れていた。


 結界柱の光が、点いたり消えたり、痙攣するように瞬いている。


(……っ!)


 喉の奥で、言葉にならないため息が漏れる。


 心に浮かんだ名前は二つだった。


 ユナ。

 イツキ。


 どちらへ向かうか考えるまでもない。

 より危険なのは、柱に近いユナの家だ。


(……イツキは、たぶん避難所の方に走る)


 あいつならそうする。

 怖がりで、自分でもそれを知っていて、それでも逃げた自分を一番嫌うタイプだ。


(生きてさえいれば、後でいくらでも殴れる)


 ユウマは一度だけ深呼吸をし、納屋から飛び出した。


 ◆


 村の南側は、すでに地獄だった。


 火の手がいくつも上がり、屋根が崩れる音があちこちで響く。

 暗闇と炎の間を、灰色の影がうごめき、家々の隙間から悲鳴が漏れていた。


 結界柱の一本は完全に沈黙し、周囲には砕けた石片が飛び散っている。


(……これ、冗談抜きで村ごと持っていかれるやつだな)


 前世で覚えた「詰み」の匂い。

 それでも、足は止まらなかった。


 ユナの家は、結界柱に近い。

 曲がり角を一つ抜けたところで、ユウマはその家を見つけた。


 扉の前に立つ男の背中。

 その後ろに、娘を庇うように立つ女の影。


 そして——灰色の腕と牙。


「やめてぇぇぇっ!!」


 ユナの悲鳴が、夜空を裂いた。


 禍鬼が爪を振り下ろす。

 父親の肩から血が噴き、鍬が手から滑り落ちる。


 同時に、別の禍鬼が母親の方へ跳びかかった。


「ユナ!!」


 叫んだときには、もう体が勝手に動いていた。


 倒れた鍬を蹴り上げ、その柄を空中で掴む。

 全体重を乗せて、禍鬼の横顔めがけ振り抜いた。


 骨が砕ける鈍い感触。

 禍鬼の頭部が横に吹き飛び、血と黒い液が地面に飛び散る。


「ユウマ……!」


 ユナが、縋るような目でこちらを見た。


 彼女の背後。

 父は胸を抉られ、母は腹を裂かれ、それでも娘に手を伸ばそうとしている。


「ユナを——連れて……いけ……」


 父の声は、掠れていた。


 母は声にならない声を漏らしながら、娘の背中を押す。


「振り返るな……絶対に……」


 その手を、禍鬼の爪が引き裂いた。


「いやだ……いやだよ、父さん! 母さん!!」


 ユナの足がすくむ。

 その肩を、ユウマは強く掴んだ。


「ユナ!」


 強引に、顔を自分の方へ向けさせる。


「行くぞ」


「でも——」


「今、ここで振り返ったら、二人の命を無駄にすることになる!」


 自分の声が、思ったよりも冷静に聞こえた。


「……うん」


 ユナの唇が震えながら、ようやく小さく動く。


 その瞬間、背後で肉が裂ける音がした。

 父と母の姿は、禍鬼の群れに完全に隠れてしまう。


 ユウマは、ユナの手を掴んで走った。


 ◆


 集会所——社のある中央へ向かうのが、避難の基本だ。


 火と悲鳴の間を縫って走る途中、ユウマは横目で村の様子を見ていた。


 扉を内側から必死に押さえる腕。

 泣きじゃくりながら子を抱いて走る母親。

 膝をついて嗚咽する老人を、誰かが無理やり引きずっていく。


 三年間、一緒に笑って、畑を手伝って、酒をもらって。

 それでも非常時になれば、皆、自分と自分の家族で精一杯になる。


 誰も責められない。

 責められないが——


 心のどこかで、静かな諦めが顔を出す。


 ——だからこそ、今隣にいる彼女だけは、絶対に手放したくなかった。


「ユウマ、あれ——!」


 ユナの指差す先。

 崩れた壁の陰で、ひとりの少女がへたり込んでいた。


 教室の隅の席によくいる、小柄でおとなしい子だ。

 そのすぐそばで、青年が瓦礫に足を挟まれたまま身を起こそうとしている。


「頼む……この子だけでも……!」


 青年が、血だらけの手を伸ばした。


 瓦礫の量からして、彼を引き抜くには時間がかかる。

 その間にも、別の禍鬼の影が近づいてくるのが見えた。


(間に合わない……!)


 即座に、頭の中で線引きをする。


 全員は無理。

 でも——目の前のこの子を見捨てたら、多分、自分で自分を嫌いになる。


「ユナ!」


 短く呼ぶ。


「彼女の手、握って。絶対に離すな」


「で、でも——お兄ちゃんが——」


 ユナの視線が、青年と少女の間を揺れる。


 ユウマは青年の目を真っすぐ見た。

 自分でも驚くほど、軽い調子で言う。


「絶対に、この子は社まで連れてく。だから、あんたはここで踏ん張れ」


 青年は、泣き笑いのような顔で頷いた。


 少女の手をユナに押し付け、二人の背中を押す。


「走れ!」


 ユナは歯を食いしばり、少女の腕を抱き締めるようにして走り出した。


 反対側の路地からも悲鳴が上がる。

 助けてくれ、と叫ぶ声がする。


 顔を向けない。

 向けたら、足が止まる。


(ごめん!)


 心の中でだけ、はっきりと言い切る。


(でも、今、手が届く範囲くらいは守らせろ)


 ユウマは、二人の後を追って走った。


 ◆


 社のある中央へ向かう道は、いくつかある。


 広い大通りを通れば人は多いが、禍鬼も集まりやすい。

 だからユウマは、北西へ抜ける細い路地を選んだ。


 昼間は子どもたちが追いかけっこをしているような道だ。

 何度も通った、見慣れた石畳。


「ユウマ、すべる……!」


「足元見ろ。前ばかり見るな!」


 焦げた木片と瓦礫を避けながら、駆け抜ける。


 途中、横手の小さな祠の前で、膝をついて祈っている老人が目に入った。


(……すまん)


 一瞬だけ視線を向けて、すぐに顔を戻す。


 立ち止まって、誰かの肩を抱いてやる余裕はない。

 ユナと少女、その二人を社まで連れていくだけで精一杯だ。


 路地の先、角を曲がった瞬間だった。


 がらがら、と頭上で嫌な音がする。


「っ——!」


 反射的にユナと少女を抱き寄せる。

 次の瞬間、上から石と梁が落ちてきて、行く手を完全に塞いだ。


 埃が舞い、視界が白く濁る。


「……嘘、でしょ」


 ユナが、震える声で呟いた。


 目の前には、瓦礫の壁。

 後ろからは、低い唸り声が近づいてくる。


 振り返ると、路地の入り口に、灰色の影が二つ、三つと現れていた。


「ユウマ……」


 ユナの指先が、ユウマの服をぎゅっと掴む。


(逃げ道、無し)


 冷静な言葉が、頭の中で浮かぶ。


 ここで自分一人なら、まだやりようはあった。

 瓦礫をよじ登るなり、禍鬼をすり抜けて逆走するなり、無茶を通す選択肢もある。


 でも今は、背中に二人抱えている。


 前世で、散々「正しいことをしても踏みにじられる」のを見てきた。

 それでも今、目の前の二人から手を離せるかと言われたら——無理だった。


「前に出ろ」


 ユウマは、ユナと少女を自分の背後に押しやる。


「俺が倒れたら、逆方向に全力で走れ。ただし、誰か倒れてても振り返るな」


「やだよ……!」


「やれ」


 振り返らずに言い切る。


「あの二人(両親)が命張って繋いだ道を、ここでお前が止めたら、俺が許さねぇ」


 禍鬼が一体、飛びかかってきた。


 ユウマは、残っていた鍬を横に構え、突進の勢いを受け止める。

 腕に、尋常でない重さが乗った。


「ぐっ……!」


 鍬の柄が、きしんだ。


 もう一体が、横から回り込んでくる。


(まずいな)


 視界の端で、ユナの震える肩が見えた。


(ここで、また“何もできませんでした”は……勘弁だ)


 前世の、あの少女の顔が脳裏をかすめる。


「——来いよ、化け物!」


 自分でも驚くほど、軽口が出た。


 ユウマはあえて一歩前へ踏み込み、鍬の柄を突き出した。


 突進してきた禍鬼の体重が、そのままのしかかる。


「っぐ……!」


 受け止めきれず、鍬ごと右肩から弾き飛ばされる。


 石畳に叩きつけられた瞬間、肩のあたりに焼けつくような痛みが走った。


 肺の空気が一気に押し出され、言葉にならない息が漏れる。


「ユウマ!!」


 ユナの叫びが、遠く聞こえた。


(あぁ……やっぱこうなるのか)


 どこか、納得している自分がいた。


 この世界に来ても、結局、選ぶのは「どうせ報われない」側だ。

 それでも——せめて、最後に守ったと胸を張れる相手がいるのなら、それでいい。


 視界の端で、もう一体の禍鬼が爪を振り上げるのが見えた。

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