第4話 二つのほころび
翌朝。
村の空には、薄い雲が一面に伸びていた。
「イツキ!」
畑の端にやっと陽が届きはじめた頃、村の奥から、よく通る怒鳴り声が飛ぶ。
「三番柱の札、昨日のままじゃったぞ!」
「……おはようございます」
「おはようじゃない!」
呼ばれて駆けつけたユウマとユナは、少し離れたところで成り行きを見守る。
「昨日、張り替えに行くって言ってただろうが!」
「行こうとは、思ってたんだよ?」
「思うだけで
容赦ない一喝に、イツキは頭をかきながら子どもみたいに目をそらした。
三人が村外れの斜面へ向かうと、三番柱は根元こそしっかりしていたものの、札の端が黒く焦げ、細かいひびが入っていた。
近づいただけで、かすかな熱と、金属を焼いたような匂いが鼻をつく。
「……昨日、夜に一回、変な光り方してました」
札を覗き込みながら、ユウマが口を開く。
「点いたり消えたり。息切れしてるみたいな」
「やっぱりか」
宗一は、深く息を吐いた。
「禍の押しが強うなっとる。柱のどれかひとつが落ちたら、その隙を突いて群れが押し寄せる。
“昨日まで大丈夫だった”は、何の保証にもならん」
言葉はきついが、声色には焦りよりも疲れが混じっていた。
「……すみません」
イツキの肩が、少しだけ小さく見える。
いつもは軽口でごまかす男が、素直に頭を下げるのは珍しい。
「俺も手伝いますよ。札の予備、どこですか」
ユウマが口を挟むと、宗一は一瞬だけ目を丸くし、すぐに短く頷いた。
「倉に用意してある。……悪いな、ユウマ。お前まで巻き込んじまって」
「どうせ、どこかで誰かが困るなら、早い方がいいですから」
前の世界で、「あとで」がどれだけ致命的な言葉になり得るかは、嫌というほど見てきた。
報告も決裁も謝罪も。
間に合うかどうかの線は、たいてい「今やるか」「明日やるか」の違いで決まる。
三人で札を張り替える作業は、それなりに骨が折れた。
古い札を慎重に剥がし、柱の表面を清めた布で拭ってから、新しい札を貼る。
ユナが、酒と塩を混ぜた水を器用に垂らし、指で結界の文言をなぞる。
「……よし」
新しい札が、白く静かに光を帯びる。
昨夜ユウマが見た「苦しそうな点滅」ではなく、均一で落ち着いた明るさだった。
「これで、三番柱のほころびは塞げた」
宗一が、小さく漏らす。
塞げた、という言い方に、ユウマは少しひっかかった。
布のほころびみたいに、一度できた傷跡が、木と札のどこかに残り続けるのだとしたら――
どれだけ上から新しい糸を重ねても、「元通り」とは呼べないのかもしれない。
そんな考えを、頭の隅に押しやって、柱から離れる。
村へ戻る途中、イツキがやや気まずそうに口を開いた。
「……悪い、ユウマ」
「何が」
「結界の札、本当は俺の仕事なのにさ。手伝わせちまって」
「気にすんなって。どうせ午前中は授業の準備だけだし」
わざと軽い調子で言うと、イツキは少し救われたように顔をゆるめる。
「ユナにも怒られたしなぁ。『明日でいい』とか言ったら雷落とされた」
「当たり前でしょ」
前を歩いていたユナが振り返る。
「父さんがいつも言ってるじゃない。
“明日やるって言葉は、禍を呼ぶ呪いみたいなもんだ”って」
「呪いって大げさだろ」
「俺のところだと『宿題』って呼ばれてたな」
思わず口からこぼれた単語に、二人がそろって首をかしげる。
「しゅくだい?」
「子どもにしか出ない、悪い病気みたいなもんだよ」
「ひどい言い方」
ユナが呆れながらも笑い、イツキもつられて肩を揺らした。
笑いながら歩いていると、村の中央に近づくにつれて、人の声と鍋の匂いが濃くなっていく。
どこかの家から味噌を煮る匂い、別の家からは煮込みの匂い。
一瞬だけ、ユウマの胸に、小さな違和感が通り過ぎた。
匂いも、声も、いつもの朝と同じはずなのに、さっき見た焦げた札の残像が、景色の端に張り付いたまま離れない。
それでも足を止めるほどの理由にはならず、そのまま三人は自分たちの持ち場へ散った。
午前の授業を終え、子どもたちを外へ追い出した頃。
「……ユウマ、イツキ。ちょっといいか」
宗一が、小屋の戸口から顔を出した。
「さっき見回りから知らせがあった。五番柱の札も、焼けが進んどるらしい」
「五番って、川の向こうの?」
ユナが眉をひそめる。
「あそこ、森の匂いが一番きつい場所だ」
「ああ。禍の風が吹き込む筋になっとる。
今日中に張り替えんと、次の夜は持たんかもしれん」
その声には、先ほどよりさらに重さが乗っていた。
三番柱は、ほころびひとつで済んだ。
だが二本目となれば、話が変わる。
「……五番も、今日中ですか」
イツキが、首筋をかきながら視線をそらした。
「今日“も”だ。柱は、同時に二本までは落とせん」
宗一は、息子をまっすぐ見据える。
「仕事が詰まってるなら、誰かに振れ。
全部自分で抱え込んで、“明日でいい”を増やすのが一番まずい」
「分かってるけどさ……」
そこへ、別の村人が慌てたように駆け込んできた。
「イツキ、すまん! 裏山の薪、まだ割れてなかったろ。今日中にどうにかならんか」
「川の柵も見てきてくれって言われてたわよね」
ユナが横から口を挟む。
「なんでこういう日に限って……」
ぼやきながらも、イツキは一つひとつ断り切れずに動いてしまう。
性格の良さと、断れなさは、たいていセットだ。
「五番、あとで行く」
斧を担ぎ直しながら、イツキがこぼした。
「その『あとで』が一番危ないって、さっき言われたばかりでしょ」
ユナが腰に手を当てる。
「行くなら、用事断ってでも行きなさいよ。父さんだって分かってくれる」
「……そう言われてもさ。頼まれてるのも、どれも“今じゃないと困る”やつばっかりで」
イツキの言い分も、分からなくはない。
村は小さく、人手も少ない。誰かが倒れれば、その分の穴は別の誰かが埋めるしかない。
「でも、柱が落ちるよりマシだろ」
ユウマは、あえて軽く言い切った。
「怒られるのも仕事のうち、ってやつだ」
前の職場でも、誰も怒られ役になりたがらず、本当に危ない場所だけがいつまでも後回しにされていった。
気づいたときには、もう手が付けられない。そんな現場を、何度も見た。
イツキはしばらく黙り込み、大きく息を吐いた。
「……分かったよ。薪割り終わったら行く」
「順番、逆じゃない?」
ユナのツッコミに、イツキは苦笑いでごまかした。
日が傾き始めた頃。
「イツキー、見張り台の交代の時間だぞー!」
若い兵の声が飛んできた。
「うわ、もうそんな時間か」
イツキは斧を置き、慌てて上着を引っ掴む。
「五番は?」
「……あとで行く。見張り台は交代サボれないだろ」
その一言に、ユナが露骨に眉をひそめた。
「それ、さっきも聞いた」
「分かってるって」
分かってはいる。
けれど、目の前の「今すぐ」も、同じくらい重くのしかかってくる。
(やるべきことが多すぎると、人間は優先順位を間違える)
ユウマは、前の職場で見た光景を思い出していた。
誰も好きでサボっているわけではないのに、いつの間にか「本当に危ないところ」に手を伸ばす者がいなくなる。
「……俺も見張り台行く。どうせ夜の様子、気になってたし」
そう言うと、イツキが少しだけほっとしたように笑う。
「お、じゃあ三人で……じゃなくて、見張りだな」
「今、変な間があったよね」
「聞き間違い聞き間違い」
ユナはため息をつきながらも、結局一緒に
見張り台から眺める夕暮れは、美しかった。
畑は淡い橙色に染まり、結界柱は一本一本が、光の糸でつながっているように見える。
遠くの森は黒く沈み、その向こう側は、もう人の世界ではない。
「……今日、いつもより静かだな」
イツキがぽつりと呟いた。
「禍鬼の声も少ない」
「静かな方がいいじゃない」
「いや、なんか、逆に不気味でさ」
イツキの言う通り、風の音以外、ほとんど音がしなかった。
禍鬼の遠吠えが聞こえない夜は、珍しい。
いつもはどこかから聞こえてくる、低く濁った唸り声が、今日は薄い。
「火の匂いもしないしな」
ユウマは鼻をひくつかせる。
煙の匂いも、焦げた匂いもない。
それなのに、胸の奥にだけ、もやのようなざわつきが残っていた。
「旅商人が言ってただろ」
欄干に肘をつきながら、イツキが話題を変える。
「ルミナリアの“光冠の剣”も、禍源に行ってるとかなんとか」
「ああ。南の砂海遊牧連合ザラハドも、砂嵐の中から禍鬼がわいてるって噂だったな」
「世界中、ろくな話がないね……」
ユナが苦笑する。
「それでも、ここには畑があって、飯があって、結界もまだ生きてる。
……恵まれてるって言うべきなんだろうね」
「恵まれてるのは、英雄と柱のおかげだろ」
イツキは遠くに並ぶ白木の列を見やった。
「七つの国で、それぞれ英雄が踏ん張ってる。
禍源の穴からわいてくる禍鬼を叩き続けてる。
その端っこが、ここまで届いてないだけだ」
「英雄がいなかったら、どうなってると思う?」
ユウマの問いに、イツキは少し考えてから答える。
「とっくに、この見張り台も禍鬼の巣だろ」
「想像したくない」
ユナが肩をすくめた。
夜が落ち、交代の時間が過ぎた頃。
イツキは、誰にも言わずに村外れへ向かった。
五番柱――川の向こうに行くには少し遠い。
だが、今夜のうちに“見ておく”だけでもしないと、眠れなかった。
村はまだ眠らない灯りをいくつか残したまま、静かに呼吸していた。
見張り台の火は小さく揺れ、遠吠えひとつ聞こえない夜が続く。
結界柱の影。
風は届いていないはずなのに、札の端だけが、ひとりでにかすかに揺れた。
紙が擦れる、乾いた音。
次の瞬間には、何事もなかったように止まる。
ただ、墨の線が一筋だけ、滲んだようにも見えた。
夜気が、少しだけ冷える。
イツキは札を握りしめたまま、何も言わずに背を向けた。
足元の土を踏む音だけが、暗い道に小さく残っていく。
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