第3話 きしむ結界

 朝の空気はまだ冷たく、土の表面だけが陽にあたってかすかに温まっていた。


 ユウマは畑の土を指でつまみ、親指で押し潰す。

 湿り気は、ぎりぎり「ちょうどいい」の少し手前だった。


「先生、ここ水あげすぎ?」


 隣の畝で、まだ幼さの残る少年が自分の苗をのぞき込みながら首をかしげる。


「押してみろ。ぐちゃっとなるだろ」


「うわ、ほんとだ」


「根っこが苦しくなる。詰め込みすぎると、ろくなことにならないのは、水も勉強も同じだ」


「……なんか、急に説教入ってきた」


「気にすんな。おっさんになると、口も勝手に老害っぽくなるんだよ」


 少年は「おっさんって言うほど歳じゃないだろ」と言いたげに口を尖らせ、

 それでも素直に自分の畝の土をつまんで押してみる。


 ぐちゃ、といやな感触が指に残ったらしい。顔をしかめて、慌てて周囲の土をほぐし始めた。


「やり直せるうちは、いくらでもマシだ」


 こぼれた言葉は、自分に向けたものでもあった。


 額の汗を拭いながら、ふと視線を上げる。


 畑の向こう。森との境界線の手前に、等間隔に白い柱が立っている。

 アシハラの結界柱。村を禍鬼まがおにから守る、文字通りの命綱だ。


 その一本の札が、かすかに光った。


 ちらり、と。風に揺れたのか、光が揺らいだのか、一瞬判断がつかないほどの明るさ。


「……今、光ったよな」


 独り言のように漏らすと、近くで草を束ねていた老人が顔を上げた。


「最近は、よう光る」


「前からこんなもんじゃなかったんですか」


「昔は月に一度光けば多い方じゃった。今は——」


 老人は、節だらけの指を折って数える。


「この十日で、四回は見とる」


 禍鬼が近づくと、結界柱の札が反応して光る。

 ここでは、それが「禍鬼来てるよ」の合図であり、「でも結界があるから大丈夫」という安心の印だった。


(安心の回数が、増えすぎてる気がするんだよな)


 胸の奥に、小さな違和感だけが沈殿した。


 ただ、土をいじる手は止めない。止めたら、余計なことまで考えそうだったからだ。


  ◇


 午前の畑仕事を切り上げると、今度は「授業」の時間だ。


 村はずれの小さな納屋。

 普段は農具が置かれている一角に、古い板と石を集めて即席の机と椅子を作った。


「『あ』は、口を大きく開けて言う。『い』は口を横に引っ張る。ほら、ユナやってみろ」


「あ」「い」


 ユナがやけに真面目な顔で口をぱくぱくさせる。

 その隣で、イツキが笑いを堪えきれずに肩を震わせた。


「お前、魚みたい」


「イツキはもうちょっと字を覚えなさい。人の顔見て笑ってる余裕ないから」


「先生またイツキにだけ厳しい〜」


 わいわい騒ぐ子どもたちを前に、ユウマは板に炭で簡単な文字をなぞってみせる。


 この世界の文字は、前の世界のものと似ているようで少し違う。

 村に来てからの三年で、それをようやく読み書きできる程度には覚えた。


 子どもの一人が、煤けた壁に貼られた英雄隊の粗末な絵を指さす。


「先生、これ本当? 四英雄って、禍鬼を百体やっつけたんでしょ」


「百かどうかは知らないけど……王都の連中が盛ってるだろうな。話ってのは、遠くに行くほど大げさになる」


「でも、かっこいいよな。焔守ほむりのレン様!」


 少年の目がきらきらしている。

 この村から見れば、英雄たちのいる王都はあまりにも遠い。

 その遠さが、余計に物語をきらびやかにするらしかった。


「英雄は英雄で大変だぞ」


 ユウマは、板の角で指をとんとんと叩く。


「毎日、命賭けで前線まわってさ。失敗したら国ごと終わり。責任の重さで胃に穴あくタイプの仕事だ」


「先生、なんでそんなに詳しいの?」


「……前に似たような大人を見たことがあるだけ」


 会社で、上からも下からも詰められていた上司の顔が、ふと浮かぶ。

 胃を押さえながら謝っていた姿と、「国を背負ってる英雄」の話が、妙なところで重なった。


「俺らは俺らで、畑耕して飯作って、ここを守る。英雄は遠いところで頑張ってくれてる。役目が違うだけだ」


「ふーん……」


 子どもたちはまだ、本当の意味では分かっていない。

 それでいい、とユウマは思った。


 遠くの血の匂いまで、畦道の子どもに想像させる必要はない。


  ◇


 昼を過ぎた頃、イツキの父に呼ばれた。


「ユウマ、ちょっと来い。三番柱の札、様子がおかしい」


 村の外れ、森との境界線。

 そこには、一定の間隔で結界柱が並んでいる。


 三番柱の札は、縁が薄く焦げていた。


「……またぶつかられたんですか」


「風向きが変わってから、こっち側に寄る禍鬼が増えた」


 イツキの父は、指で札の焦げをなぞる。


「張り替えればまだ保つが、持ちが前より悪い。禍源の方で、何かがうごめいとるのかもしれん」


 冗談めかして言う声の底に、かすかな疲れが滲んでいた。


「今日中に全部見て回りますか」


「おう。……イツキも連れていく。あいつ、最近『明日でいいだろ』が多すぎる」


「それ、前もよく聞いた台詞ですね」


 耳が痛い言葉だった。

 「明日でいいだろ」が積もった結果が、あの会社での地獄のような日々だったことを、身体がよく覚えている。


 午後は、結界柱の点検で終わった。


 札を張り替え、木の根元に詰まった落ち葉をどかし、ひびの入った石を補強する。

 柱そのものも、ところどころに打ち直した跡があった。


「ここ、前にも直しましたよね」


「冬の間に一度。……木ってのは、寒暖で割れたり歪んだりするもんだ。

 人も村も同じだが、ひびを見て見ぬふりしたら、ある日まとめて折れる」


「耳が痛いの、二回目ですけど」


「わしはずっと前から痛ぇ」


 イツキの父は笑い、そっと柱を叩いた。

 コン、と乾いた音が返ってくる。その裏側にあるものを、確かめるように。


 作業を終えて村に戻ると、イツキは水桶を担いで走っていた。


「イツキー、親父さん、さっきぼやいてたよ」


「うえ、何言われた?」


「『明日やるって言い出したら尻を蹴り飛ばせ』だって」


「……先生もグルかよ」


 口では文句を言いながらも、イツキは水桶を地面に置き、額の汗を腕で拭った。

 肩まわりが、三年前よりだいぶがっしりしている。


「今日の見回り、ありがとな」


 ぼそりと小さく言った言葉に、ユウマは少しだけ驚いた。


「どうした、急に殊勝じゃん」


「別に。ただ、父さん一人で回らせるのもきつそうだし。……ほら、俺の村だし」


「はいはい、かっこつけました」


 茶化すと、イツキは照れ隠しに水をかけてきた。


「やめろ、泥跳ねるだろ」


 そんな他愛もないやり取りが、三年分の時間を物語っていた。


  ◇


 日が暮れると、村は一気に静かになる。


 各家から漏れる灯りが少しずつ減っていき、代わりに、結界柱の光が夜の輪郭を縫い始める。

 遠くの森からは、低い唸り声がときおり届いた。


 その夜も、三人は見張り台にいた。


「今日はやけに多いな」


 イツキが耳を澄ませながら、唇を尖らせる。


「昨日より少し近い気がする」


 ユナが腕をさすり、肩を寄せてきた。


「気持ち悪い風だな。生臭い」


 ユウマは、木の手すりにもたれながら、夜気を吸い込む。


 湿った土と、遠くで燃やされた薪の煙。

 それに、ごくかすかに、鉄を削ったような匂いが混ざっている。


(……誰かがどこかで鍬でも研いでる、ってことにしときたいな)


 内心で冗談めかしながらも、その匂いが「血の匂い」に近いことを、どこかで知っていた。


「英雄たち、今どこら辺にいるんだっけ」


 ユナが空を見上げたまま問う。


「旅商人が言ってた。王都から西の禍源方面に向かったって」


 イツキが答える。


「禍源って、あの大陸の真ん中の“穴”みたいなとこ?」


「ああ。禍鬼が湧いてる元凶だとかなんとか」


 ユウマは、以前聞いた説明を思い返す。


「レンたちは、そこで夜通し戦ってるんだろうな」


「すげーよなぁ。俺らとは違う世界の人間って感じ」


「違う世界の人間」の言葉に、ユウマの胸がほんの少しだけ引っかかる。


 自分も、気づけば「違う世界の人間」側にいるはずなのに、

 ここで土を触っている分には、その実感は薄かった。


「でも、こっちもこっちで戦場だよ」


「え?」


「腹が減るのも、畑が枯れるのも、禍鬼に噛まれるのも、みんな死ぬ理由になる。

 ただ、派手じゃないだけだ」


「先生、たまにそういうこと言うからほんと“先生”って感じ」


「似合うのは先生だけ。あたしたちはもっと可愛い言葉がいい」


 ユナが小さく笑う。


「じゃあ、何て言う?」


「……そうだな。ここ守る。今日も、明日も。できるだけ長く」


 その言葉は、思った以上に静かに響いた。


 イツキが、ぼりぼりと頭をかきながら顔をそらす。


「お前、たまにずるいこと言うよな」


「別に普通のこと言っただけ」


 風が一層強くなり、見張り台の柱がきしりと鳴った。

 足元の木板が、かすかに震える。


 遠くの結界柱が、一瞬だけ強く光り、すぐにいつもの淡い明るさに戻った。


「あ、今の見た?」


「どれ?」


「……いや、なんでもない」


 見間違いかもしれない。

 そう思い込むには、少しだけ胸のざわつきが残った。


「先生、明日も授業ある?」


「午前中だけな。午後は結界の手伝い」


「じゃあ朝、子どもたちに英雄ごっこの続きさせないと」


「お前ら、結局英雄になりたいんじゃねぇか」


「なるんじゃなくて、遊ぶの」


 そんな話をしながら、三人は見張り台を降り、それぞれの家へと分かれていった。


 その背中の上に、森の方から、いつもより少し重い唸り声が重なった。


 夜風が運んだ鉄のような匂いは、弱くて、とりとめがなくて——

 「いつものことだ」と誰も口に出さなかった分だけ、静かに、村のどこかに積もっていった。

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