第2話 辺境に届く英雄譚
ユウマがこの村に流れ着いてから、三年が経っていた。
雨の日と、畑の仕事がない日。
村はずれの空き小屋は「教室」に変わる。
黒板代わりの古い板。
机代わりの木箱と、椅子代わりの丸太。
そこにちんまりと座り込んだ背中が、十も二十も並んでいる。
「センセー、この字なんて読むの?」
幼い手が、板に書かれた数字を指さした。
「“疫禍歴”だ。今は六三四年」
「えき……か?」
「疫病みたいに、禍が広がった年から数える。ここは、そういう世界だからな」
ユウマは板の端に丸を描き、その周りに大雑把な線を引く。
アルメシア大陸。
七つの国が寄り集まった、終末じみた大きな陸地。
「じゃあ、なんで“禍”なの?」
別の子が首をかしげた。
「真ん中に“禍源域”って場所がある。あそこに近づくと、人が禍鬼になる」
「禍鬼(まがおに)!」
誰かが得意げに読み上げる。
「そう。噛まれても、なる。だから——結界の外は、基本、死ぬ」
言い切ると、子どもたちの顔が一瞬だけ固まった。
ユウマは板の線を、東の端で止める。
「でも、ここはアシハラの東端だ。結界がある。だから畑ができるし、飯が食える。今日みたいに、字も教えられる」
空気を戻すように、ユウマは板の下に、ひらがなを一つ書いた。
「あ。口を大きく開けて言うやつ。ほら、真似しろ」
「あ」
「次、い」
「い!」
ぎこちない口の形が並び、笑いが起きる。
その笑い声の中に、細い鈴の音が混じった気がしたが、誰も気に留めない。
この三年で、ユウマは「死なないための手つき」をいくつも覚えた。
土の湿り気で鍬の入れ方を変えること。
節の向きを見て薪を割ること。
結界柱の札が、しっとり重くなる感覚。
何より一番驚いたのは、20代の頃の体に若返っていた事だった。
そして——前の世界で嫌というほど書かされた書類仕事が、まさか「文字」を教える形で役に立つとは思わなかった。
「線が曲がってる。こっちは『お』。丸が多いやつ」
「ユウマ、それは『あ』の方じゃない?」
片付けに回っていた星波(ほしなみ)ユナが、笑いながら口を挟む。
「あ、ほんとだ。危ない危ない。センセーが間違えてどうする」
「先生が一番危ないね」
子どもたちがどっと笑う。
ユウマは、わざと肩をすくめて見せた。
◇
授業がひと段落し、子どもたちを外に追い出してから、ユナがほうきを動かしながら言った。
「ユウマ、ありがとね。最近、みんな本当に字が読めるようになってきたよ。薬草の札も、自分で読める子が増えてる」
「村にとっては、生き残る確率が上がる。読み書きは贅沢じゃない」
「うん。……それに、子どもたちも嬉しそうだし」
ユナはそう言って、外の方をちらりと見た。
「——そうだ、今日、市の日だよ。忘れてない?」
「ああ、月に一度の、あれか」
月に一度、近くの村や集落からも人が集まり、旅の商人が荷馬車を引いてやって来る。
塩や布、珍しい薬草や、子ども向けのおもちゃ。
そして——都会や戦場の噂話。
「イツキ、もう広場にいるかな」
「どうせ荷馬車の所にいるよ。ああいうの、好きそうだし」
◇ ◇
村の中央にある広場。
普段は子どもたちの遊び場になっているその場所も、今日は人でごった返していた。
臨時の屋台。野菜や干し肉を並べた台。
漂ってくる香ばしい匂いに、子どもたちの視線が吸い寄せられている。
「おーい、こっちこっち!」
人だかりの向こうから、イツキが手を振った。
腰には、いつものように簡素な槍。
「もう来てたのか」
「当たり前だろ。市の日だぞ? 月に一度の娯楽なんだから」
「娯楽って言い方、村に怒られるよ」
ユナが笑いながら肩を小突く。
イツキは肩をすくめ、露店の方へ顎をしゃくった。
「ほら、例の話してる。……英雄譚だ」
商人が、子どもたちに取り囲まれていた。
木札の束を手に、芝居がかった口調で語っている。
「アシハラ四英雄隊だよ。知らないわけないだろ?
赤い炎をまとって禍鬼を焼き切る“紅焔の隊長”——」
「紅焔!」
子どもたちが声を揃えた。
「そうそう、それそれ。覚えがいいな。
でな、その隊長に仕える若い英雄がいる。名前は——」
商人が木札をひらりと回して見せる。
そこに刻まれた文字は、子どもたちにはまだ読めない。
「……先生、あれ読める?」
囁くように聞かれて、ユウマは曖昧に笑った。
「読めなくていい。いまは“覚えなくていいこと”もある」
「むずかしい」
「世の中はだいたい、むずかしい」
つい癖で口にすると、商人がこちらをちらりと見て、にやりと笑った。
「お、先生がいるみたいだな。こいつは、四英雄隊の中でも一番若くて、一番無茶をするって話だ。
隊長に『まだ死ぬな』って何度も怒鳴られてるらしい」
子どもたちがどっと笑う。
「もちろん、英雄がいるのはアシハラだけじゃない」
商人は、今度は別の木札の束を取り出した。
「光の結界で街を包む、光冠聖王国ルミナリアには——
“光冠の剣”と呼ばれる聖騎士がいる。
立派な剣を構えたまま、禍鬼の群れに突っ込んでいってさ。
その後ろを、聖女さまや神官たちがずらっと並んでついてくる」
「すごい……」
「砂の海を渡る遊牧の国、砂海遊牧連合ザラハドには、
砂嵐の中を駆ける双子の弓使いがいるって話もある。
見えない砂の向こうから、一度に百本の矢が飛んできて、禍鬼の群れをまとめて貫くんだとさ」
「本当に百本?」
「百本“かもしれない”って話さ。噂ってのは、多めに盛るもんだ」
商人自身が、いたずらっぽくウインクしてみせる。
それでいて、子どもたちの目は、完全に彼の掌の上だ。
「どの国にも、こういう“誰か”がいる。
禍鬼だらけの終末みたいな世界でも、
最前線で戦って、結界の外側を守ってくれてる連中がな」
商人は、わざと少しだけ声を落として続けた。
「だから、お前たちは——畑を耕して、ご飯を食べて。
よく寝て、よく笑って。
それでいいんだ。英雄の真似なんかしなくていい。
英雄は、英雄の場所で勝手に血を流すからな」
冗談めかした言い方だったのに、空気が一瞬だけ冷えた。
ユウマは、子どもたちの頭を撫でるふりをしながら、胸の奥に触れたものを確かめる。
自分の命を軽く扱える勇気は、ユウマにはない。
だから——届く範囲だけを守れればいい。
「先生も英雄になりたかった?」
無邪気な声が飛んだ。
ユウマは、笑って首を振る。
「俺は、畦道の端っこで土いじってる方が性に合ってる」
「……俺たちみたいなのは、脇役で十分だろ」
イツキが、軽く言って肩をすくめた。
「わき?」
子どもが首をかしげる。
「前に出ない役目ってことだ。畑を守って、火を絶やさない——そういうの」
「やめてよ、縁起でもない」
ユナが眉をひそめる。
「名前はあるし、三人ともちゃんとここにいるでしょ」
「はいはい。じゃあ、俺は“畦道係”で」
軽口にして、場を戻す。
戻さないと、子どもたちの目に、英雄より先に“死”が映る。
英雄たちがどこで何をしているのか、この村の誰も知らない。
けれど、ここには今日も畑があって、子どもがいて、炊き立ての湯気がある。
ユウマは、広場の外れへと続く小さな畦道を歩きながら、胸の奥でそっと息を吐いた。
——明日もきっと、土に触れて、字を教えて、飯を食べて。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
さっきから耳の奥で鳴っている鈴の音が、どこかで細く、細く続いていることには——気づかないふりをしながら。
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