終末世界で頑張ります
深蒼 理斗
第1話 最悪の夜
その夜、雨は降っていなかった。
にもかかわらず、アスファルトには水たまりができている。
昼に降った雨と、さっきまで頬を伝っていた涙の残りが混ざって、街灯の光をぼやけさせていた。
「……最悪だな、ほんとに」
篠原(しのはら)ユウマは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
三十五歳。中堅の営業職。
ついさっきまで、会社の会議室で「自己都合退職」という名の処刑宣告を受けていた。
『今回のクレームはね、部署全体の問題なんだよ。ただ、誰かが責任を取らなきゃならないだろう?』
部長の声は穏やかで、書類に記された文言は冷たかった。
実際に重大なミスをしたのは、数字もコネもある若手社員だ。
ユウマは、ただクライアントの怒りを何度も受け止めて、頭を下げて、胃を痛め続けただけ。
『篠原くんが“上に立って指導する立場”なんだからさ。ね?』
そう笑ったのは、昔から飲みに付き合ってきた先輩であり、親友だと思っていた男だった。
会議室を出てからのことは、あまり覚えていない。
離席中、ふと覗いてしまった婚約者のスマホの画面だけが、やけに鮮明だった。
『――またホテルでね♥ あいつには内緒だよ』
送り主の名前は、さっき笑っていたその男。
会社では濡れ衣を着せられ、プライベートでは裏切られ。
残ったのは、明日からどう生きればいいのか分からない「元・普通の社会人」だけ。
(……ほんと、最悪だ)
ため息と一緒に、薄く笑いが漏れる。自嘲以外に、出せる感情が残っていなかった。
人通りの少ない夜の街を、ユウマはあてもなく歩く。
スーツの裾は少し濡れていて、革靴の中も気持ち悪い。
ビルの看板と信号の灯りだけが、やけに色鮮やかに見えた。
「やっ、やめてっ──!」
その声に、足が止まる。
ビルとビルの隙間。街灯の届かない暗がりの中で、小さな影がもがいていた。
スーツ姿の男が一人。
その腕の中で、学生服の少女が必死に暴れている。男の手は少女の口を塞ぎ、身体を引きずろうとしていた。
「……冗談、だろ」
よりによって、今日このタイミングで。
見なかったふりをする理由はいくらでもある。
もう関わりたくない。
これ以上、誰かのために傷つきたくない。
ここで知らないふりをしても、誰も責めはしないだろう。
――それでも、足が勝手に動いた。
「おい、その子から離れろ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
スーツの男が振り向く。夜目にも分かる、苛立ちと焦りの混じった顔。
「は? なんだテメェ、関係ねぇだろ」
男が罵声とともに腕を振り上げる。
その拍子に、少女の身体がアスファルトへと崩れ落ちた。
胸の奥に、鈍い怒りが込み上げる。
(……ふざけんなよ)
婚約者を裏切った親友の顔と、目の前の男の顔が重なる。
本当なら、スマホを取り出して警察に通報し、距離を取りながら時間を稼ぐべきだ。
そんな理屈を考える前に、ユウマは走り出していた。
殴り合いなんて、学生のとき以来だ。
それでも衝突の瞬間、男が想像以上に軽く感じられたのは、怒りか、アドレナリンか。
「ぐっ──このっ……!」
男の拳が頬をかすめる。
殴り返す。腹に膝を入れる。もみ合いながら、路地を転がった。
その間も、少女は怯えた目でこちらを見ている。
助けてほしいのか、怖いのか、自分が何をしているのか分からなくなってきた。
やがて、通りの向こうから、サイレンの音が近づいてくる。
「警察だ! そこまで!」
制服姿の警官が二人、路地に駆け込んできた。
「ちょうどいいところに──」
「その場で手を離して、壁に向かって立って!」
制止の声が、ユウマの言葉をかき消す。
次の瞬間には、腕を後ろからひねり上げられていた。
「ちょっ、違う、俺は──」
「通報では“スーツの男が女子高生に襲いかかってる”って話なんだ。あんた、条件にぴったりじゃないか」
短く告げられた言葉に、喉が詰まる。
「こいつがやったんだ! 俺は止めようとして……!」
「その話は署で聞く。暴れないでください。公務執行妨害になりますよ」
少女と目が合う。
彼女の唇が、小さく震えていた。何かを言おうとして、言えずにいる子どもの顔。
責める気持ちは、不思議と湧いてこなかった。
たぶん、自分だって同じ年齢のとき、きっと何も言えなかっただろう。
「……はは。そうかよ」
力が抜けていく。
ねじ上げられた腕には、容赦のない痛みが走った。
ほんの一瞬、警官の手が滑る。
一旦距離をとるために、ユウマは路地の外へ出た。
――ヘッドライトが、目の前で膨れ上がる。
(ああ、終わったな)
焦げたゴムと、鉄の匂いが鼻を刺す。
クラクションの音が、やけに遠く聞こえた。
最後に浮かんだのは、涙ぐんだ少女の顔でも、婚約者でも、親友でもない。
――もっと、普通に生きたかったな。
こんな“最悪の夜”のまま終わるんじゃなくて。
情けないほど平凡な悔しさとともに、世界が真っ暗になった。
◇ ◇ ◇
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
濡れたアスファルトではない。もっと柔らかく、ざらついたもの。
(……土?)
ゆっくりと目を開ける。
視界いっぱいに、見たことのない星空が広がっていた。
街灯も、ビルの明かりもない。
代わりに、ほんのりとした青白い光が、木々の間から漏れている。
「……どこだ、ここ」
上半身を起こす。
スーツのはずだった生地は、いつの間にか粗末な布に変わっていた。
ネクタイも、財布も、スマホもない。
代わりに、腰には見知らぬ布袋と、水筒のようなものがぶら下がっている。
(事故は……? 車に、跳ねられて……)
胸に手を当てる。骨は折れていない。
頭も、血で濡れている感覚はない。
代わりに、鼻につくのは、土と草と、湿った木の匂い。
ゆっくりと立ち上がる。周囲を見渡せば、そこは森の中だった。
夜の闇の中で、木々の幹が黒い柱のように並んでいる。
「夢、ってわけでもなさそうだな……」
頬をつねる。痛い。
その現実感が、逆に心許なかった。
そのときだった。
「……ァァァ」
低い唸り声が、どこからか聞こえた。
人間の声帯から出る音にしては、濁りすぎている。
喉の奥を泥で固めたような、湿ったうなり。
背筋に、冷たいものが走る。
振り向いた先、木々の間に、何かが立っていた。
人の形に、ぎりぎり見える。
ただ、肌はどす黒く変色し、全身に黒いひび割れが走っている。
裂けた口の隙間からは、黒煙のようなもやが漏れ、
乾いた骨が軋むような音が、一歩ごとに足元から響いてきた。
濁った瞳と、目が合う。
「──っ!」
喉の奥から、さっきと同じような唸り声が飛び出しそうになる。
思考より先に、足が動いた。
全力で立ち上がり、森の奥へと走り出す。
何度も枝に足を取られ、転びかける。それでも止まれなかった。
呼吸が荒くなり、肺が焼けるように痛む。
(なんでだよ。なんで、死んだあとまで走ってんだ俺)
情けない自嘲が、頭の隅に浮かぶ。
それでも、さっきとは違う。今度は本当に、捕まったら終わる。
背後で、木を薙ぐような音がした。
振り返る勇気はない。ただ、前へ、前へ。
やがて、視界の先に、開けた場所が見えた。
森を抜けた先、小さな谷のようになった斜面。その向こうに、柵らしきものが並んでいる。
人の気配。かすかな煙の匂い。
車ではなく、かまどの薪のはぜるような音。
「……人、だよな?」
かすれた声が漏れる。
それと同時に、足元の土が崩れた。
「うおっ──」
バランスを崩し、斜面を転がり落ちる。
背中や肩を打ちつけながら、どうにか途中で身体を丸めた。
そして――視界の端に、さっきの“それ”が映る。
斜面の上。闇の中から、黒い影が飛び出してきていた。
裂けた口を開き、黒煙を垂らしながら、こちらへ飛びかかってくる。
(やば──)
避けきれない。そう思った瞬間。
「せぇッ!」
鋭い掛け声とともに、何かが横から飛び込んできた。
空気を裂くような音。
次の瞬間、“それ”の胸から、長い槍の穂先が突き抜けていた。
黒い肉と骨が砕け、地面に叩きつけられる。
もやのような煙が一瞬だけ濃くなり、やがて地面に吸い込まれるように消えた。
「……マジかよ。結界のすぐ外まで来てやがったのか」
呆然とするユウマの前で、槍を構えた青年が舌打ちした。
年は、20代くらい。
短く切った黒髪に、村の青年らしい粗末な衣服。
右手には、血と黒い液をぬめらせた槍を握っている。
青年は倒れた化け物を一瞥し、それからユウマに視線を向けた。
「おい、大丈夫か? 動ける?」
ひどく普通の、日本語だった。
方言も、訛りも、聞き慣れない単語も、不思議と耳に引っかからない。
だからこそ、余計に現実感がなくなる。
「……ここ、どこだ」
出てきたのは、間抜けな一言だった。
青年は一瞬ぽかんとし、それから苦笑した。
「どこって……あんた俺とそんなに歳変わらなそうなのに、もうボケちまってるのか?
アシハラの辺境の村のすぐそばだよ。あんた、森で迷子か?」
「え?……」
聞いたことのない地名。
それよりも青年の言葉が気になる。
目の前にいる彼は明らかに自分よりも若いはずなのに。
「さっきの、あれは……」
「あれ?」
青年は肩越しに、崩れた化け物の残骸を見やる。
光の加減か、さっきよりも黒いひび割れが薄れている気がした。
「
さらりと口にされた単語に、ユウマは反応できなかった。
代わりに、遅れて酷い疲労感が襲ってくる。
「立てる?」
「あ、ああ……」
足元がふらつきながらも、どうにか立ち上がる。
青年は槍を肩に担ぎ直し、斜面の上を見上げた。
「結界の柱、やっぱ誰かサボってたな。里のほう、明日怒鳴り込まれそうだ……」
ぼそりと呟くその声は、妙に生活感があった。
「とりあえず、村まで来いよ。森の中で一人でうろつかれても困るしな」
「村……」
“現代日本”という単語が、頭の中からすっと抜け落ちていく。
代わりに、さっきまでの出来事が一気に押し寄せてきた。
会社。婚約者。親友。少女。警察。ヘッドライト。
さっきまでいた世界で、名前は何の役にも立たなかった。
履歴書にも、婚約届にも、退職願にも書いてきた「篠原ユウマ」という文字列は、結局誰の心にも残らなかった。
それでも――
「……ユウマ。ユウマでいい」
この世界で初めて発した、自分の名。
青年は、にっと笑った。
「そっか。じゃあユウマ。俺はイツキ。村の見回り係みたいなもんだ。
詳しい話は、村に着いてからだな。……変なとこから出てきた割には、運はいい方だと思っとけよ」
何が運がいいのか、今は分からない。
それでも、さっきヘッドライトに飲み込まれたときよりは、ずっとマシだと思えた。
イツキが先に立ち、斜面を下っていく。
ユウマはその後ろについて、ふらつく足で土を踏みしめた。
斜面を越えた先、小さな灯りが点々と並んでいる。柵と、田畑と、木造の家々。
かすかな煙の匂いと、人の生活の気配。
(……また、やり直せるのか?)
そんな都合のいい話があるとは思わない。
それでも、歩くたびに、土の感触が確かに足裏へ伝わってくる。
どこの世界でも、地面は下にあって、自分はその上を歩いている。
その当たり前だけが、今は妙にありがたかった。
ユウマは、知らない村の、知らない畦道を、一歩ずつ踏み締める。
自分が何者なのかも、どこへ行くのかも分からないまま。
ただ、生き延びるために。
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