第十一話:新しい器、はじまりの春

 令和八2026年、四月。


 高校に入学して数日が経ち、私は放課後の美術室を訪ねた。


 面接であの「バケツ」の話をしてから、私の中に一つの決意が生まれていた。おじさんが土の上に描いたあの「線」を、今度は私がキャンバスの上に繋いでいきたい、と。


 放課後の美術室は、油絵の具と木炭の匂いが混じった独特の静けさに包まれていた。


 私は、入部希望者が記入する名簿の、一番最後に書かれた名前に目を奪われた。


足立あだち 半次郎はんじろう


 おじさんの名前、「半」の文字が入った、少し古風な名前。


 心臓が、跳ねる。顔を上げると、窓際の席で一本の古いステッドラーを手に、重信川の土手をスケッチしている男子生徒がいた。


「それ。じいちゃんの代から使いよる、大事なやつなんやろ?」


 思わず口から出たのは、いつもの伊予弁だった。


 彼は驚いたように振り返った。その顔は、正木まさき城の風の中で笑っていたあの「半助おじさん」に、あまりにもよく似ていた。


「なんで知っとるん? これ、美術の道に進んだじいちゃんが、ずっと宝物にしとったやつなんやけど。高校でもこれを使って、いい絵を描けって渡されたんよ」


 彼は不思議そうに笑い、自分の右手を後頭部にやった。


 その手の甲には、薄い引っかき傷があった。それはあの日、激流の中で私を助けようとして、結束バンドタイラップの端で切ってしまった、あの傷と同じ場所。


「探しとったんよ。それ、四百年分の大事なバトンやけん。絶対、失くしたらあかんよ」


 私はポケットの中で、おじさんから預かった「あの日の感触」をそっと握りしめた。


 彼はきょとんとしていたけれど、


「変なこと言うね。あ、俺、隣のクラスの足立。よろしく、高橋さん」


とはにかんだ。


 窓の外、遠くに見えるマサキモールの屋根。


 半助おじさんが守り、嘉明よしあきさんが名前を刻み、じいちゃんが繋いだこの大地。  その「器」の上で、新しい春の風が吹き抜ける。


 私たちの物語は、ここからまた、新しく溜まっていくんだ。

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