第四話:握り飯と「おじさん」の正体

 一日の工事が終わり、伊予いよの空が茜色から深い藍色へと溶けていく。


 私は現場監督の勘助かんすけから、ずっしりと重い握り飯を受け取った。


「ほらよ、みなと。食わねぇと明日の杭打ちくいうちでぶっ倒れるぞ。お前、いつまで半助様のことを『おじさん』なんて呼ぶつもりだ。失礼だぞ、身分ってもんを考えろ」


 勘助が笑う。私は米粒を咀嚼しながら首を振った。


「だって、本名を呼んじゃいけないんでしょ? 雪之丞ゆきのじょうさんが言ってたもん。いみなを呼ぶのは呪うのと同じだって。だから『おじさん』でいいんよ」


 本名を呼ぶことは、相手の魂を支配するに等しい。だから皆、通称で呼ぶ。けれど私にとって彼は、泥の中で誰よりも必死に働く「おじさん」だった。


 少し離れた河原で、半助おじさんが一人、私の描いたスケッチブックを見つめていた。


 彼は時折、胸を押さえて激しく咳き込む。その背中は、未来のマサキモールを支えるための、巨大な、今にも折れそうな人柱に見えた。


「おじさん、ご飯食べんと」


「湊か。すまんな」


 おじさんは握り飯を受け取ると、愛おしそうに図面をなぞった。


「お前の国ではこの川のほとりは、どうなっているのだ?」


「春になったら桜がわぁって咲いて、堤防の上を中学生が自転車で走りよる。夜になったらモールの灯りがキラキラして。誰も、川を『りゅう』だなんて思ってないよ。ただの、静かな、散歩道やけん」


 おじさんは遠く海へと続く闇を見つめ、静かに笑った。


「誰も水に怯えぬ国か。湊、わしがこの手で、この土地をそこまで連れて行くのだ」


 その瞳に宿る熱。私は、副読本や墓石の「足立重信あだちしげのぶ」ではなく、目の前でアイスの平和を守ろうとする、この「おじさん」を忘れないと誓った。

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