2.位置



 その音を耳障りと思ったか、むしろ心地よいと感じていたのか。

 今となっては思い出せない。


 やけに白い空間に、悠斗ゆうとはひとりで立っていた。ひとりと思うのは、左肩が寂しいからだ――まるで、半身をもがれたように。


「あの、いいですか?」


「あっ、はい……すんません」


 背後から控えめにかけられた声に、ハッとして一歩身を引く。喪服姿の婦人はそっと会釈をして、悠斗が立っていた場所へと移動する。


 白い、と感じていたのは、ずっと祭壇に向き合っていたせいだった。騒めきにつられて後ろを振り返れば、そこは黒が満ちている。


 死者を悼む色。

――陽太が、死んだ。

 勤務中に銃を持った犯人と鉢合わせ、撃たれたことによる殉職だった。


 白黒の幕。薄く沈殿する線香の香り。会場に出入りする老若男女。無難なBGMと、溌溂とした笑顔の遺影。対照的に起き上がる気配のない、棺に納められた無駄に穏やかな白い顔。


さわ」 


 呼ばれて、力の入らない左腕を引かれた。悠斗は瞬きをして傍らを見上げる。


三上みかみさん」


 日焼けした浅黒い肌に、艶黒の瞳と長めの頭髪。目つきは物騒だが、俳優といっても通用しそうな男前。先輩刑事である三上あきらがそこにいた。


「挨拶もう済んだやろ。外、付き合えや」


 三上は悠斗の腕を掴んだまま、喪服のポケットに触れて音を鳴らした。擦れる空虚な音は、煙草のフィルムだろう。

 気乗りはしないが、三上の手は強引だった。笑ったところを見たことがない人だし、こんな時でもきっと他人の気持ちを思い遣ることなどしない。


 駐車場に設けられた屋根付きの喫煙スペースの傍で、三上は悠斗の腕を離した。自身はテントの内側に入り、取り出した煙草に火をつける。

 悠斗はテントに入ることなく、銀のポールの傍らにただ立ち尽くす。テントから漏れ出る紫煙の行方をぼんやり目で追っていたら、不意に左袖が引かれた。


「……なんですか」


 不遜な態度という自覚はあったが、こんな時だし許されたい。


 濃い黒目が印象的な三上の瞳は、底なしの闇のように見えた。悠斗は唇を噛んで目を逸らすも、力の入らない左腕は振りほどけなかった。


 三上は何を言うでもなく、悠斗の左袖を掴んだまま煙草をふかし続けている。傍目からはどう見ても奇妙な光景だろう。悠斗は口の中で舌打ちを吐いて、左肩にかかる重みを感じていた。


「お前、右利きか?」


「……そうっすけど」


瀬島せじまはどっちだった?」


「……わかりまへん」


 三上の視線が左耳の下あたりに刺さる。むず痒さを感じて、悠斗は嫌味にならない程度に肩を揺らした。


「瀬島はいつも、お前の左側におったらしいな」


 吐き出す紫煙が、左頬を掠める。


「……なんでそれ、知ってはるんですか」


「俺と組んでた時は――」


 三上は一瞬だけ言葉を切った。


「あいつ、俺の右側におったわ」


「え……?」


 思わず三上を振り返る。ジワリ、赤く染まる紙煙草の先端。

 三上の右手は悠斗の袖を掴んでいる。彼が煙草を持つ手は、左手だ。


「瀬島も配属されたばっかの頃は、お前みたいに飛び出す癖があったな。痛い目見て矯正できたが、お前は変わらへんな」


 氷のような眼差しだった。三上の黒い目は、闇を映している。

 御影石のようなその黒に反射する悠斗の目も、彼と同類に見えて背筋が震えた。


「お前も、その癖いい加減矯正しいや――痛い目、みたやろ」


 悠斗はふと、袖を掴む三上の手に視線を落とす。中指と薬指で生地を挟む、不自然な手つき。


――噂で聞いたことがある。三上はかつて、右手を撃たれて負傷し、指が何本か不自由であると。


 三上の利き手はどちらだったか。悠斗は彼に指導されていた時のことを思いだそうとして、頭痛を覚えてやめる。


 左袖から指が離れる。三上は紫煙を吐いて、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

 そして「ほなな」とだけ言って斎場へ戻っていった。


 三上の吐いた煙の臭いが鼻腔に貼り付いていて、悠斗は右手で鼻を拭う。

 左手はズシリと重く、死んだように動かない。

 ただ、ジリジリと血の通う感覚だけが動き出して、冷たい痺れが指の先まで這っていった。

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