第4話 焼却炉の子守唄

1. 幼児退行(システム・ダウン)


 熱が引いていく。

 地下室の冷気が、僕の汗ばんだ背中を撫でる。

 それは母親の手のようだ。いや、ゴム手袋の冷たさか?


 レニが動かない。

 彼女の瞳孔は開ききって、宇宙の黒い穴になっている。

 でも、口元だけが動いている。

 パク、パク、パク。

 鯉? 違う。

 赤ちゃんだ。

 彼女の脳みそは、ホワイトノイズと過剰なセックスの負荷に耐えきれず、フォーマット化されたんだ。

 オメガとしての本能の、さらに奥底。

 生命のスープ。原始の海。


「……まんま」


 彼女が呟き、僕を見る。

 彼女の目には、もう「僕」は映っていない。


2. 幻覚ミルク(哺乳類失格)


 彼女が、はだけた自分の胸を指差す。

 白い、豊かな膨らみ。

 そこから、甘い匂いが漂ってくる気がする。

 バニラエッセンス? 粉ミルク? それとも、溶けた脳漿の匂い?


「……おっぱい、飲んで」


 彼女が言った。

 命令だ。女王からの、いや、聖母からの命令だ。

 僕はアルファベータ。中途半端な雑種。

 アルファになれなかった出来損ない。

 小さい。僕は小さい。豆電球だ。パチンコ玉だ。

 だから、赤ん坊がお似合いだ。


 僕は四つん這いで這い寄る。

 犬のように? 否。ハイハイだ。

 彼女の胸に顔を埋める。

 吸いつく。

 チュウ、チュウ。

 何も出ない。出るはずがない。彼女は妊娠していないし、出産もしていない。

 でも、僕の舌の上には、濃厚で、鉄の味がする、温かいミルクが溢れてくる。

 

 甘い。

 これが「安心」の味か。

 これが、理性省が禁止している「母性」という麻薬か。


3. ゆりかごからの脱出(不可能)


「ねんねして……ねんねして……」


 レニが僕の頭を撫でる。

 リズムが一定だ。

 トン、トン、トン。

 心拍数と同期する。

 僕の意識が、泥の中に沈んでいく。


 ああ、眠い。

 戦わなくていい。

 薬を売らなくていい。

 アルファに嫉妬しなくていい。

 ただ、この柔らかい脂肪の塊に吸い付いて、データの藻屑になればいい。


 その時、ドアが破られる音がした。

 バン!!

 リアルの侵入。

 

 白い防護服の男たち。

 彼らの手には、巨大な掃除機が握られている。

 銃口が、僕たちに向けられる。

 

「汚染個体を確認。直ちに焼却処分とする」


4. 抱擁と死(ダッコ・オンブ)


 怖い。

 死ぬのが怖いんじゃない。

 この「お昼寝」を邪魔されるのが怖いんだ。

 僕は震えながら、レニにしがみつく。


「だっこして! だっこして!」


 僕は叫ぶ。大人の男の声で。でも言葉は幼児で。

 グロテスクな光景だろう。

 全裸の男が、全裸の女の胸に顔を埋めて泣き叫んでいる。


 レニは、スイーパーたちを見ても反応しない。

 彼女の世界には、もう敵はいない。

 彼女は、僕の背中に腕を回す。


「……おんぶ、して?」


 違うよ、レニ。

 今はおんぶできないよ。

 僕たちは、これから燃やされるんだ。

 

 ゴオオオオオオオオ。

 掃除機のスイッチが入る。

 吸引と、着火の音。

 熱風が地下室を包む。


5. エンドロール(また明日)


 熱い。

 でも、不思議と心地いい。

 これはヒートだ。

 僕たちが求めていた、人生最大の発情期だ。

 皮膚が焦げる匂いが、キャラメルの匂いに感じる。

 

 僕の豆電球が、最後に強く発光する。

 パリン。

 割れた。

 ガラスが砕け散って、中から「僕」というガスが漏れ出す。


 レニが笑っている。

 炎の中で、彼女は女神のように美しい。

 彼女が口を開く。


「……また、明日」


 明日なんてないのに。

 コラード・シティに、明日は来ない。

 永遠の「今日」と、永遠の「白」があるだけだ。


 僕の意識は、白い灰になって、換気ダクトへと吸い込まれていく。

 空へ。

 形而境界壁を超えて。

 あっち側には、きっと、大きな黒い犬が待っている。


 おやすみなさい。ママ。

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白い粉、白い壁、白い脳髄 火之元 ノヒト @tata369

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