生贄の花嫁は、竜のつがい
花火の子
生贄の花嫁は、竜のつがい
生贄に選ばれるのは、祈りの声が一番小さい者――そんな迷信を、私は昨日まで笑っていた。
ウィロ村は山に抱かれた小さな集落で、冬になると霧が降りる。作物は痩せ、狩りも難しい。だから昔から、人々は“山の神”に縋って生きてきた。
山の神――黒曜山に棲む黒曜竜ヴァルグ。村を踏み潰すことも、燃やすこともできる存在を、村は神と呼び、恐れ、そして都合よく祈りの対象にした。
十年に一度、花嫁を捧げる。そうすれば竜は村に近づかない。
そんな取り決めが、いつの間にか因習になり、誰も疑わなくなった。
そして今年、その花嫁に選ばれたのが――私、セラだった。
広場の中央に立たされ、白い花冠を載せられたとき、足元の石が妙に冷たく感じた。松明の火が揺れ、村長が震える声で祝詞を唱える。
母は人混みの向こうで唇を噛み、泣かないように目を伏せていた。私と目が合った瞬間、堪えきれずに頬を伝った涙が、焚き火の光を映した。
「セラ……ごめんね……」
聞こえたのは、謝罪だった。
愛していると言ってほしかった。生きて帰っておいでと言ってほしかった。
けれど母だって、村だって、何かに縛られている。恐れに。
私は一度だけ頷いて、前を向いた。泣けば足が止まる。足が止まれば、誰かが代わりに選ばれる。
生贄の道は、黒曜山へ続く。
村の男たちが松明を持ち、私を囲んで森へ入った。雪を踏む音と、枯れ葉の擦れる音。息を吸うたび、喉が痛いほど冷える。
遠くで狼が鳴く。木々の影が長く伸び、まるで闇が私を引き戻そうとしているみたいだった。
道の途中、村の小さな礼拝堂の前で司祭長オルデンが立ち止まった。白い外套に金糸の刺繍。手には銀の杖。
彼は私の額に冷たい指先を当て、淡々と告げた。
「恐れるな、娘。生贄は救いだ。お前の魂は竜に喰われ、浄化され、輪に還る」
輪に還る。――意味の分からない言葉を、彼は“正しさ”みたいに言う。
私は反射的に口を開きかけたが、言葉を飲み込んだ。ここで逆らえば、母が責められる。
司祭長は私の手を取り、薬指を撫でた。薄い皮膚の上を、嫌なほどゆっくりと。
「印が出れば、儀は滞りなく進む。……だが、お前はまだ“空”だな」
そう言って、彼は微笑んだ。優しい笑みなのに、鳥肌が立つ。
私は指を引っ込め、手を握りしめた。
やがて洞窟の手前に着いた。ここから先は竜の領域。男たちは松明を地面に刺し、膝をついて祈り始める。
誰も私を見ない。見れば、心が揺れるから。
私は一人で洞窟へ入った。
入口は巨大な口みたいに暗く、奥から熱い息が吹き返してくる。焦げた石の匂い。鉄の匂い。生き物の匂い。
足を進めるたび、鼓動が早くなる。手のひらが汗ばみ、冷たい空気がそれを奪う。
(……まぶしい)
そう思った瞬間、視界が一度だけ揺れた。
夢の景色が、突然まぶたの裏に流れ込む。
黒い翼が月を切り、風が頬を撫でる。私は誰かの背中にしがみついて、笑っている。
――火の雨が降って、私は叫ぶ。
そして、熱い鱗に包まれて泣く。
(なに、これ……)
私はそんな夢を見た覚えがない。なのに胸が痛いほど懐かしい。
足が、勝手に洞窟の奥へ向かう。
広い空洞に出た。天井の隙間から月明かりが差し込み、岩肌が青く光っている。
その中心に、竜がいた。
黒曜石のような鱗。山を削った角。金色の瞳。
目が合った瞬間、足の力が抜け、私は膝をついた。声が出ない。喉が凍ったみたいだ。
竜はゆっくりと首を下げた。巨大な鼻先が私の髪に触れそうな距離まで近づく。熱い吐息が頬を撫で、花の香りがふわりと散った。
食べられる、と身構えた私に――竜は、まるで微笑むみたいに瞳を細めた。
「……遅かった」
低い声が洞窟を震わせた。
竜が、喋った。
「……だ、だれ……」
声が、やっと出た。かすれて情けない。
「ヴァルグ」
竜は名乗り、次の言葉で私の心臓を貫いた。
「セラ。……いや。今は、その名か」
私の名前を知っている。
怖いのに、胸の奥があたたかい。涙が滲む。理由が分からないのに。
「どうして、私の名前を……」
ヴァルグは答えず、鼻先で私の首飾りをそっと押し上げた。白い花が床へ落ちる。
「生贄の印は要らない」
「え……」
竜の視線が、私の薬指に落ちた。
そこに、何もないはずだった。指輪なんて持っていない。
けれど月明かりに照らされて――細い光の輪が浮かんだ。白銀の線。指輪の跡みたいに。
ヴァルグの吐息が、わずかに震えた。
「……やっと、見つけた」
竜が怖いほど優しい目をしている。
私は、恐る恐る聞いた。
「私……食べられないんですか」
「食わない」
即答だった。
ヴァルグは鱗の額を私の額へそっと寄せる。熱が伝わり、怖さより先に安心が流れ込む。
「俺は花嫁を求めたことはない。村が勝手に差し出した。恐れと都合で。俺は受け取らない」
竜の瞳が一瞬だけ冷たくなり、すぐに戻る。
「だが、お前は別だ」
「別……?」
鼻先が薬指に近づく。輪の光が、少し濃くなる。
「お前は俺の――つがいだ」
意味がすぐに飲み込めないのに、胸の奥が理解してしまう。
懐かしさの正体。夢の鱗の温度。月の上の風。
「……嘘」
「嘘ではない」
竜は静かに言い切った。
「一度、失った。お前が短い命で消えたあと、俺は長い時間を探した。何千年と…」 私は笑いそうになって、泣きそうになった。
「私は……あなたのこと、知らない」
「今は、な」
ヴァルグの声が甘くなる。抱きしめられるみたいに落ち着く。
「思い出さなくていい。――ただ、ここにいろ」
尾が動き、岩陰から柔らかい毛皮が引き出された。金色の獣の毛皮。ふかふかで温かい。
「寝ろ。怖いなら、近くにいてやる」
私は毛皮に身を沈めた。薬指の輪が消えない。
洞窟の天井から落ちる月明かりが、まぶたの裏で揺れる。
眠りに落ちる直前、私は最後に聞いた。
「ヴァルグ。私の……前の名前は?」
竜は静かに答えた。
「ルミナ」
その名を聞いた瞬間、輪が淡く光った。
「……おかえり、ルミナ」
その声が優しすぎて。
私は初めて、生贄の夜に“救われた”気がした。
目が覚めると、洞窟は朝の匂いがした。
外の光が細い線になって差し込み、岩肌を淡く照らしている。昨夜の恐怖が嘘みたいに、静かで、温かい。
私は毛皮の上で身を起こし、薬指を見た。
白銀の輪は、まだそこにある。指輪の形をした薄い光。消えない、現実。
洞窟の奥で、低い寝息がした。
ヴァルグが眠っている。巨大な胸がゆっくり上下し、吐息が温かい風になる。怖いはずなのに、その音が子守唄みたいで、私は胸の奥がほどけた。
私はそっと立ち上がり、入口へ向かった。
今なら外へ出れば村へ戻れる。
洞窟の入口で足が止まった。
森は明るい。霧が薄く、冬の光が木々の間で揺れている。村へ続く道も見える。
なのに胸が痛む。置いていく痛み。理由の分からない喪失。
「……帰るのか」
背後で声がした。
振り向くと、ヴァルグが目を開いていた。金色の瞳が私を捉え、離さない。
私は喉が詰まった。帰るべきだ。
でも、帰った先にあるのは“生贄が消えた後始末”だ。私にはもう村に居場所はない。
「……わからない」
正直に言うと、ヴァルグの目が少しだけ柔らかくなった。
「恐れなくていい。お前が望むなら、いつでも帰せる」
「……どうして“帰したくない”って言ったの」
問いかけると、彼は一拍置き、たった一言で答えた。
「欲しいからだ」
簡単で、ずるい。
でも“奪う”ではなく“欲しい”と言うところが、彼らしい。
私は薬指に触れ、息を吸った。
「……少しだけ、ここにいてもいい?」
ヴァルグは驚いたみたいに瞬きをした。
次に、まるで大切なものを扱うように尾をゆるく置き、道を作った。
「好きにしろ。……俺は、お前の意志を尊重する」
私は洞窟へ戻った。
*
それからの日々は、不思議なほど穏やかだった。
ヴァルグは洞窟を“巣”として整えていた。岩を焼いて乾かし、毛皮や布を運び込み、湧き水の近くに石の器を置いた。
食事も、驚くほど気遣いがあった。狩った獣の肉を火で炙り、骨や筋を丁寧に除き、私が食べやすい大きさに切り分ける。
「竜って……料理、するの?」
思わず言うと、ヴァルグは鼻先を少しだけ逸らした。
「お前が嫌がる顔を見たくない」
その答えが甘くて、私は頬が熱くなった。
私は少しずつ洞窟を歩けるようになり、ヴァルグの鱗に触れることにも慣れていった。黒曜石みたいに硬そうなのに、温度がある。
触れるたび、頭の奥で何かが微かにほどけていく。夢の断片が増える。空を飛ぶ感覚、火の匂い、彼の声。
ある夕方、ヴァルグが言った。
「……人の姿を見せよう」
「え?」
「怖がらせたくない」
そう言って、彼は洞窟の奥へ下がった。深く息を吸い込み、黒い炎が一瞬渦を巻く。
次の瞬間、そこに立っていたのは長身の男だった。
黒髪に金の瞳。肌は熱を孕んだように滑らかで、首元と背にうっすら鱗の名残。
そして何より、竜だったときと同じ瞳で私を見ている。
「……これなら、近いか」
声は同じ。
近い、という言葉の意味が変わってしまって、私は視線を逸らした。
「ずるい」
「何が」
「急に……人っぽい。近い」
ヴァルグは目を細めた。笑ったのだと分かって、胸が跳ねる。
「近いのは、つがいだからだ」
また、その言葉。
私は薬指の輪を見る。前より少し濃くなっている。
「ねえ、ヴァルグ。つがいって……何をするの?」
「共に生きる。共に眠る。共に守る」
淡々とした答えのあと、彼は少しだけ言い淀んだ。
「……そして、愛する」
最後の一言が熱くて、息が止まりそうになった。
私は誤魔化すように言う。
「じゃあ……私は花嫁?」
「俺の花嫁だ。だが、強制ではない」
選べる。
選んでいい。
その事実が、私の中の“恐れ”を少しだけ溶かした。
その夜、私はヴァルグのそばで眠った。彼は人の姿のまま、毛皮の上に座り、私が眠るまで動かない。触れない。でも、遠くへも行かない。
私はいつの間にか、彼の呼吸に合わせて眠りに落ちた。
途中で目が覚めると、彼が小さな声で言っていた。
「ルミナは、よく笑った。空が好きだった」
私は目を閉じたまま囁く。
「……ルミナって、私の前世?」
「俺のつがいだった。短い命で消えた」
胸が痛い。知らないはずなのに喪失がわかる。
私は、思わず聞いた。
「私……思い出せるかな」
「思い出さなくていい。今のお前が、お前だ」
優しい檻みたいな言葉だった。逃げなくていい、と言われているみたいで。
でも甘さは長く続かなかった。
洞窟の外で、金属の擦れる音がした。人の足音。複数。
ヴァルグが瞬時に目を開け、空気が鋭くなる。
「……来た」
「誰が?」
「教会だ。お前を取りに来た」
私は息を呑んだ。
村の因習の“管理者”が、ついに本性を現したのだ。
洞窟の入口に白い灯りがちらつく。祈りの光が、結界の形を作り始める。
ヴァルグが私の手を取った。
「奥へ」
私は頷きかけて、首を振った。
「怖い。でも……あなたを置いていく方が、もっと怖い」
言った瞬間、薬指の輪が熱を持った。
ヴァルグが驚いたように私を見る。
「……今の言葉は」
洞窟の外で、誰かの声が響く。
「異端の竜よ! 花嫁を返せ! それは神のものだ!」
私は震えながら、ヴァルグの手を握り返した。
「私は“もの”じゃない」
ヴァルグの瞳が、甘く揺れた。
「なら、戦う」
入口が光に満ち、次の瞬間、白い鎧の騎士がなだれ込んできた。
白い鎧の騎士たちは祈りの光を盾にして洞窟へ踏み込んできた。
先頭に立つのは司祭長オルデン。銀の杖を掲げ、冷たい声で宣言する。
「黒曜竜ヴァルグ。女を返せ。彼女は生贄として捧げられた。つまり教会の管理下にある」
管理。
その言葉が、私の中の何かを燃やした。
ヴァルグが私の前に立つ。人の姿のまま。
その背は、怖いほど頼もしい。私は彼の背中を見ながら、一歩前へ出た。
「生贄として捧げられたなら、受け取ったのはヴァルグよね」
オルデンが眉をひそめる。
「生贄が口を利くな」
「私はセラ。……そして、ルミナ」
その名を口にした瞬間、頭の奥が弾けた。
空の風。鱗の温度。笑い声。私は確かに竜の背で生きていた。
涙が滲む。
「思い出した。私、あなたと約束してた。――また明日も飛ぼう、って」
ヴァルグの瞳が揺れる。信じたい顔。
彼は小さく息を呑み、声を震わせた。
「ルミナ……」
「うん。……ただいま」
オルデンが苛立ったように杖を振る。
「戯言を! その女を確保しろ!」
騎士が私へ迫る。
ヴァルグが動くより早く、薬指の輪が燃えるように光った。
白銀の輪が、炎の輪に変わる。
熱が、私の中から溢れた。怖いのに、懐かしい。身体が覚えている。
(これが、私の“つがいの印”…!)
私は息を吸って吐いた。
吐息は、小さな火になった。
炎が騎士たちの足元を舐め、結界の光が揺らぐ。騎士たちは怯み、盾を落とす者もいた。
オルデンが目を見開く。
「人が……竜の炎を……!」
ヴァルグが、泣きそうに笑った。
「……俺の花嫁だ」
私は震えながら頷く。
「私、あなたと生きる。今度は消えない。もう二度と――奪われない」
ヴァルグが竜の姿へ戻る。黒い炎が渦を巻き、洞窟が震え、巨大な翼が広がる。
彼の威圧ではなく、“意思”が空気を満たした。
オルデンは後退りながら叫ぶ。
「神罰を――!」
だがヴァルグの炎は、ただ焼くだけではない。祈りの結界の“編み目”を見抜き、絡め取り、裂く。
光が砕け、洞窟の入口が開いた。
騎士たちは混乱して撤退する。
最後にオルデンが振り返り、憎しみを込めて言った。
「その女は災いを呼ぶ。村はお前を許さぬぞ!」
私は叫び返したかった。
でも私は言葉ではなく、選択で返すことにした。
「ヴァルグ。村へ行こう」
竜の金の瞳が私を見る。
「恐れないのか」
「恐い。でも……逃げたくない。私は“返される”んじゃなくて、自分で選ぶ」
ヴァルグはゆっくり頷き、首を下げた。
「乗れ。俺の花嫁」
私は鱗に触れ、背にまたがった。
その瞬間、風の記憶が全身を満たす。涙がこぼれた。
夜空へ飛び立つ。
翼が空気を裂き、森が下へ流れる。
村の灯りが見えた。
広場には人々が集まり、松明が揺れている。オルデンが何か叫び、村の男たちは恐怖で固まっていた。
竜が現れた瞬間、悲鳴が上がり、誰かが膝をついた。
でも私は、ヴァルグの背から降り、広場の真ん中に立った。
足は震えていた。けれど声は震えなかった。
「私は生きてる。食べられてない。――そして私は戻ってきたんじゃない。伝えに来たの」
村長が青い顔で震える。
「セ、セラ……!」
母が人混みの向こうで私を見つめ、息を呑んだ。駆け寄りたいのに怖くて動けない顔。
私は母を見て、泣きながら笑った。
「お母さん。ごめん。でも……私、生きたい」
母の目が揺れ、唇が震える。
それでも母は、最後に言った。
「……生きて」
その二文字が、私の中の鎖を切った。
オルデンが叫ぶ。
「竜は魔だ! その女は魔に魅入られた! 連れていけ!」
けれどヴァルグが一歩前へ出て、炎ではなく低い声で言った。
「恐れを喰って支配するのは俺ではない。――お前たちだ」
オルデンが言葉を失う。
村の人々も沈黙する。恐れで固まっていた空気が、少しだけ動いた。
私はヴァルグの前に立ち、宣言した。
「私はこの竜と生きる。つがいとして。
でも村を壊しに来たんじゃない。二度と生贄を出させないために来た。――誰かの恐れの穴埋めに、命を使わせない」
風が吹く。松明の火が揺れる。
誰かが膝をついたまま泣いた。
やがて村長が、震える声で言った。
「……生贄など……やめよう。もう……やめよう」
長い夜が、ようやく終わった。
*
私は村に“帰らなかった”。
けれど、もう追放でも生贄でもない。
私はヴァルグと洞窟で暮らし、時々、空を飛んで村の上を通った。
恐れは少しずつ薄れ、代わりに、子どもたちが手を振るようになった。母も、遠くから手を胸に当てて、私を見上げるようになった。
ある朝、ヴァルグが人の姿で私の髪を撫でた。
「ルミナ」
私は笑って首を振る。
「今はセラ。でも、どっちでもいい。あなたが呼ぶなら」
ヴァルグは真剣な顔で言う。
「何度でも呼ぶ。何度でも迎える。二度と失わない」
私は背伸びして、彼の頬にキスをした。
火の匂いではなく、朝の匂いがした。
「じゃあ、約束。今日も飛ぼう」
ヴァルグの瞳が甘く細まる。
「――もちろんだ、花嫁」
私たちは空へ飛び立った。
恐れのためではなく、私たちの選択のために。
生贄の花嫁は、竜のつがい 花火の子 @Hanabinoko
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