焚き火と一杯の記憶
五平
第1話:道志、爆ぜる黒
十一月の道志は、すでに冬の準備を終えていた。
車を降り、最初の一歩を踏み出した瞬間に足裏が捉えたのは、逃げ場のない「湿り」だった。昨晩から居座っているのか、あるいはこの森自体が常に肺の奥に溜め込んでいるものなのか。落葉が腐葉土へと還る直前の、重く、甘い、死の匂いが鼻腔をかすめる。吐き出す息は白く、キャンプ場を裂くように流れる川の音は、夏よりもどこか硬質で、寄せ付けない冷たさを孕んでいた。
「……重いな」
独り言は、湿った空気に厚く包まれ、数メートルも届かずに消えた。
まずは火を熾さなければならない。この森の冷気に対して、自分という存在の境界線を明確にするための、唯一の熱源。ザックのサイドポケットから使い古されたハスクバーナの斧を引き抜く。用意されていた薪は、表面がしっとりと冷え切っていた。これをそのまま火にくべたところで、白く濁った煙が立ち昇り、森の湿り気を助長するだけに終わるだろう。
膝をつき、薪の断面を睨む。
斧の刃を食い込ませ、重みを乗せる。パカン、と乾いた音が森に響き、内側の「まだ生きていた頃の熱」を閉じ込めた白い肌が露出した。外側の拒絶とは対照的な、その無垢な木目をナイフで削いでいく。
ナイフの刃先を慎重に当て、ミリ単位の調整で力を加える。
薄く、長く、羽のように。削り出されたフェザースティックが、暗がりの中で白く浮き上がる。乾燥しきっていない木材は、削るたびに「ミ、ミ」と重い抵抗を返してきた。指先に伝わるそのわずかな震えが、かつて図面と向き合い、寸分の狂いも許されなかった職務の記憶を呼び覚ます。だが、今の指先が追従しているのは、設計思想ではなく、木目の不規則なうねりだ。
合理性だけでは、この森とは対話できない。
湿っているなら、その分だけ深く削ればいい。火がつきにくいなら、その分だけ助走の時間を長く取ればいい。ただそれだけの道理が、今の自分にはひどく心地よかった。
足元に白い花の蕾のような、緻密な木屑の山が積み上がる。
メタルマッチを構え、黒いロッドをストライカーで鋭く擦り下ろした。
散る火花。パチッ、パチッ、と虚空で弾けては消える数千度の光。
焦りはない。火花を散らすのではなく、火花を「置く」のだ。
三度目。
小さな、本当に小さなオレンジ色の点が、麻紐の繊維に宿った。
それはまだ、風が吹けば逃げ、目を離せば死んでしまうような、頼りない意思に過ぎない。
肺の底から、温かな空気をゆっくりと送り込む。
立ち昇る一筋の煙。目に染みる痛みを無視し、視線を一点に固定する。
点は線になり、線は面へと広がり、やがて細い小枝を包み込んだ。
「パチリ」
木の中に閉じ込められていた水分が水蒸気となり、細胞を突き破って外へ飛び出す音が聞こえた。
この音が聞こえれば、もう大丈夫だ。
火は、自らの力で呼吸を始めた。
周囲に暖かな円陣が広がり始めるのを確認し、真鍮製のコーヒーミルを手に取る。
中に放り込んだのは、油分を帯びた深煎りのケニア。
ハンドルを回すと、ゴリ、ゴリ、という硬い振動が手首を伝って肘まで響く。薪を割った時の衝撃とは違う、精密な機械の噛み合いが生む感触。豆が持つ熱の記憶が、ミルの中で粉砕され、香ばしく、それでいて暴力的なまでに濃厚な香りが解放されていく。
ケトルから立ち昇る湯気は、焚き火の煙とは明らかに異なる純白だった。
ペーパーフィルターに粉を乗せ、中心から円を描くように最初の一滴を置く。
じわり、と黒い粉が膨らんだ。
まるで生き物が、数万年の眠りから覚めて呼吸を再開したかのように。
二投、三投。
チタンマグに落ちる液体の音は、驚くほど重い。
最後の一滴が落ちるのを待たず、ポットを置く。
立ち昇る湯気の向こうに、まだ赤々と、しかし静かに燃え続ける火がある。
一口。
喉を焼くような熱と、突き抜ける苦味。
酸味を一切排したその「黒」が、冷え切った食道を通り、胃の腑に熱の錨を下ろした。
「……ふぅ」
指先が温まってくる。
同時に、先ほどまで自分を包囲していた森の冷たさが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
道志の、あの湿った、重苦しい静寂。
それに飲み込まれそうになっていた輪郭を、この一杯の苦みが物質的に繋ぎ止めている。
火は、まだ爆ぜ続けている。
飲み干すことなど、今は考えていない。
半分ほど残ったマグカップをサイドテーブルに置き、背もたれに深く身を預ける。
森の闇は深い。
だが、視界の端で爆ぜ続けるオレンジ色の火花と、手元に残るわずかな珈琲の香りが、この夜がまだ始まったばかりであることを教えていた。
次の更新予定
焚き火と一杯の記憶 五平 @FiveFlat
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。焚き火と一杯の記憶の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます