第3話「村にいるのに、居場所がない」


 世界が変われば、空気の成分すら違うのではないか。

 そんな馬鹿げた感想を抱くほど、その場所は寒々としていた。


 国境の緩衝地帯。

 人間とオーガ族、双方が「自分たちの土地だ」と主張し合い、結果としてどちらも管理しきれずに放置された荒野。

 俺を乗せた馬車がたどり着いたのは、その荒野にへばりつくように存在する、オーガ族の集落だった。


「降りろ、人間。到着だ」


 護送役の兵士に背中を乱暴に小突かれ、俺はよろめきながら地面に降り立った。

 足裏から伝わる感触は、硬く凍てついた土のものだ。

 見上げれば、鉛色の空が低く垂れ込めている。吐く息は白く、頬を撫でる風には鋭い刃物のような冷たさが混じっていた。数時間前まで空調の効いた日本のビルにいた身としては、この急激な環境変化だけで体調を崩しそうになる。


(……ひどいな、これは)


 俺は襟を立てながら周囲を見回した。

 村、と呼ぶにはあまりに惨憺たる有様だった。

 家々は石と枯れ木を積み上げて作られているが、その多くが崩れかけている。隙間風を防ぐために獣皮や泥が塗りつけられているものの、それすら剥がれ落ちて久しいようだ。

 道端には錆びついた農具が転がり、どこからか何かが焦げたような——あるいは腐ったような、鼻をつく臭いが漂ってくる。


 俺は、脳内の知識データベースを検索する。

 『オーガ族』。

 一般的には強靭な肉体と好戦的な性格を持つ種族とされる。だが、目の前に広がる光景に「強者」の覇気はない。あるのは、長く続く消耗戦と貧困に削り取られた疲弊の色だけだ。


「おい、さっさと歩け。広場で族長がお待ちかねだ」


 兵士に促され、俺は村の中心部へと歩を進めた。

 視線を感じる。

 建物の陰から、無数の目が俺を見ている。

 その瞳には、異種族への好奇心よりも明確な敵意と警戒色が滲んでいた。彼らにとって人間は、長年争ってきた憎き敵なのだ。これから和平の象徴としてここに来た俺は、彼らにとって格好のサンドバッグに見えているに違いない。


 広場に出ると、そこには五十人ほどのオーガが集まっていた。

 でかい。

 至近距離で見ると、その威圧感は圧倒的だった。

 身長は二メートルを超え、丸太のような腕と岩のような胸板を持っている。そして何より、額から突き出た太い角。ねじれたもの、直角に伸びたもの、それぞれ形状は違うが、どれも凶器としての説得力に満ちている。


 広場の中央では、大きな鍋から湯気が上がっていた。

 どうやら食料の配給が行われているらしい。

 俺たちはその様子を見るために、物陰で足を止めた。


「チッ、今日もこれだけかよ」

「文句を言うな。南の畑がやられたんだ」


 殺伐とした会話が聞こえる。

 彼らが手にしているのは、木の椀に入った薄い粥のようなものだ。具などほとんど見当たらない。


(食糧事情は最悪、か。……ん?)


 俺の視線が、ふと一点に吸い寄せられた。

 巨躯のオーガたちがひしめく列の、一番後ろ。

 そこに、周囲から意図的に距離を置かれている小さな影があった。


 あまりに、小さかった。

 そして、あまりに異質だった。


 まとっているのは、衣服と呼ぶのも憚られるような麻袋を継ぎ接ぎしたボロ布だ。サイズが合っておらず、華奢な肩が寒風に晒されている。

 だが、何より目を引いたのは「色」だ。

 泥と煤にまみれた村の中で、その存在だけが雪のように白かった。

 色素の薄い髪。透き通るような白い肌。

 そして額には——他のオーガのような猛々しい角ではなく、硝子細工のように繊細で、折れそうなほど細い「一本の白い角」が生えていた。


「……次! ——あ? またお前か」


 配給係の大男が、露骨に顔を歪めた。

 列の最後に並んでいた彼女を見下ろし、まるで汚物を見るような目を向ける。


「『白角(しろづの)』にやる飯なんてねえよ。ただでさえ凶作なんだ。お前みたいな役立たずが生きてるだけで、村の迷惑なんだよ」


 罵声が広場に響く。

 だが、周囲のオーガたちは誰も彼女を庇おうとしない。それどころか、「そうだ」「帰れ」と追従する声すら上がる。

 彼女は——白い角の少女は、フードを目深にかぶり直し、消え入りそうな声で言った。


「……すみません。でも、あの子たちの分だけでも……」

「ああん? 知ったことか!」


 ガシャン、と鈍い音がした。

 配給係の男が、お玉に残っていたわずかな粥の残りを、わざと彼女の足元の泥にぶちまけたのだ。


「ほらよ。地面から舐めろ。凶兆の娘にはそれでお似合いだ」


 ドッと、下卑た笑い声が周囲から湧き上がる。

 俺の胃の腑が、熱いもので満たされていくのを感じた。

 怒りだ。

 だが、それは正義感からくる熱血漢の怒りではない。もっと冷たく、どろりとした、俺自身の根幹に関わる不快感だ。


(……非効率だ)


 俺は無意識に奥歯を噛み締めていた。

 いじめなんてものは、組織運営において最も無駄なコストだ。

 特定の個体を攻撃したところで、食料が増えるわけでも天候が回復するわけでもない。ただストレスを発散させ、労働力というリソースを損耗させるだけの愚行。

 ましてや、彼女は抵抗すらしていないというのに。


 パシッ。

 乾いた音がした。

 近くにいたオーガの子供が投げた石が、彼女の肩に当たった音だった。


「あっち行け! 父ちゃんが言ってたぞ! お前がいるから雨が降らねえんだ!」

「白いのは不吉なんだよ!」

「変な目! 気持ち悪い!」


 子供の残酷さは、大人のそれを純化させたものだ。

 石は一つでは終わらなかった。二つ、三つと投げられ、彼女の細い体に当たる。

 彼女はよろめいたが、それでも倒れなかった。

 怒鳴り返すことも、泣き叫ぶこともしない。

 ただ、泥にまみれた野菜屑のような粥の塊を、素手で拾い集めていた。


(……やめろ)


 俺が声を上げそうになった、その時だ。

 俺の「観察眼」が、あることに気づいて静止した。


 彼女の手だ。

 泥だらけで、ひどい赤切れを起こしているその手。

 だが、その指先には、ボロボロの革切れと太い針が握られていた。


(……縫ってるのか?)


 配給を待つ間も。罵声を浴びている間も。石を投げられている今この瞬間も。

 彼女は、服のほつれを直そうと手を動かし続けていたのだ。

 自分の服ではない。サイズからして、おそらく子供用の誰かの服だ。

 震える指先で、それでも正確に、一針一針。


 俺の胸の奥で、何かがカチリと音を立てて切り替わった。


 彼女は、諦めているわけじゃない。

 心を殺して、ただ「生活」を守ろうとしている。

 理不尽な暴力や根拠のない迷信に晒されながらも、今日を生き延びるために、自分にできる唯一のこと——「手を動かすこと」をやめていないのだ。


 かつて読んだ本の一節が、脳裏をよぎる。

 『尊厳とは、他者に与えられるものではない。泥の中で立ち続ける足に宿るものだ』


「……おい、見ろよ」


 隣にいた兵士が、下卑た笑いを浮かべて俺の肩を叩いた。


「あれが今日の主役だ。お前の嫁さんになる女だよ。『白角』のユラ。村一番の嫌われ者で、凶兆の象徴だ」

「…………」

「傑作だろ? 人間の捨て駒には、オーガの捨て駒がお似合いだ。せいぜい二人で、惨めに野垂れ死んでくれよ」


 兵士の言葉は、もはや俺の耳には届いていなかった。

 俺は冷え切った指先でこめかみを押さえ、深く息を吐いた。

 肺に入った冷気が、頭の中の熱を急速に冷却していく。


 ああ、そうか。

 捨て駒結構。厄介払い上等だ。


 俺は、俺と同じように「生きようとしている人間」を、無能な連中のサンドバッグにする趣味はない。

 そして何より、俺は「壊れたものを直して使う」ことに関しては、多少の自信がある。

 マニュアルを読み込み、手順を組み、最適解を導き出す。

 それが俺の——インドアで陰キャな事務屋の、唯一の戦い方だ。


「……行くぞ、人間」


 兵士に背中を押され、俺は広場へと足を踏み出した。

 泥にまみれ、それでも針を握りしめている白い角の少女——ユラのもとへ。


 彼女がふと顔を上げ、赤い瞳が俺を捉えた。

 その瞳に映った俺は、きっとひどく無愛想で、つまらない顔をしていただろう。

 だが、それでいい。

 俺がこれから彼女に提供するのは、甘い愛の言葉でも劇的な救済でもない。

 ただの「生活」だ。

 合理的で、効率的で、そして誰にも邪魔されない、俺たちの暮らしだ。


 俺の異世界婚活は、最悪のマイナス地点から、ようやく本当の意味で始まった。

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