すてきな指先

日崎アユム(丹羽夏子)

すてきな指先

 わたしのベッドには手が生えている。正確には、ベッドの下から、ベッドの木枠を支えるような形で、人間の右手首が生えている。生えている、としか説明のしようがない。とにかく、ベッドの下の暗い空間からにょきっと、手の平が天井向きで指先は上に軽く折り曲がった形の手がある。


 生まれて初めての一人暮らしだった。就職して三年が経ち、職場に近いところに1LDKのマンションを借りた。

 大卒総合職の仕事は忙しく、電車で片道一時間半かかる実家からの通勤は苦痛そのものでしかなかったから、わたしは配属先が決まったその日から引っ越しを切望していた。

 とうとう三年目になり、夏のボーナスを引っ越し資金にてることを決意して、不動産屋が閑散期の七月に物件を探した。条件が合うところを五件ほど内見して、寝室に良さそうな南向きの部屋があるこのマンションに決めた。お盆の夏休みに正式に引っ越しをして、今日でもうすぐ二週間、現在八月下旬である。


 一人暮らしの解放感もあり、通勤時間は半減して心身の負担は激減、古くて狭くてごみごみした子供部屋ではなくインテリアにもこだわった1LDKは快適で、何もかもが順調だった。

 特に寝室には意識してベッドしか置かなかった。寝る時に余計なものがあると睡眠障害になるというネット記事を読んだので、あえてベッド以外何も入れないようにしたのだ。寝室の真ん中、北側の壁からも南側の窓からも距離を置いて、頭が西側を向くようにセッティングした。そんなに高価なものではないが、清潔な感じがするライトブラウンの木枠の新品のシングルベッドだ。


 気がついたのは、土曜日の朝だった。前の日の晩に会社の同期と飲み会をして帰りが遅くなったので、朝もいつもより大幅に寝坊した。したがって丑三つ時というわけではなかった。


 西に頭を向けて寝ている時に右側になるほう、つまり南向きに、手が生えていた。


 最初に目で見て存在を認識した時、あまりの不気味さにわたしは悲鳴を上げた。見間違いかと思ってすぐに遮光カーテンを開けて部屋に光を入れたが、手は南から入る日光を浴びてすくすくと育ったかのような様子でそこにあり続けた。


 こんなもの、前日まではなかったはずだ。たぶん。前日の夜は酔っていたし、生活動線上こちら側のベッドフレームはあまり目に入らないので、わからない。木曜日の朝はどうだっただろう。水曜日は。思い出せない。こんなところ、普段からチェックするところではない。この日は土曜日で、シーツを洗濯しようと思って寝起きですぐに剥がそうとして、ようやく気がついたのだ。


 最初、誰かのいたずらではないかと思った。誰にも合い鍵を渡していないのに、わたしは誰かのいたずらを疑った。誰かがおもちゃの手首をベッドの下に設置したのではないかと考え、取り外そうとして手に触れた。

 手は、ひんやりとしていた。筋や骨の硬さと、皮膚のわずかにしっとりしている感じが、いかにも人間の手という感じだった。小さい頃に冷え性の母の手を握った時の感触を思い出した。作り物ではない。


 人間の手が、生えている。


 わたしは気が動転して泣きながらスマホでSNSのアプリを立ち上げた。ここぞという時にSNSを見てしまうのがわたしの癖だった。フォロワーのみんなに聞いてもらわなければ、と心底真剣に考えて、ベッドから手が生えた、とポストした。けれどなかなか反応は来なかった。

 わたしはもう一度、手が生えてる、と言いながら写真画像を添付した。ところが、あるフォロワーが、AI画像? というコメントをつけた。わたしはそのコメントに仰天した。画像にはしっかりベッドフレームに指を添えた手首が映っている。フォロワーはこれをわたしが生成AIで作ったのだと勘違いしたらしい。

 ――違うよ、信じて! 朝起きたら手が生えてたんだよ。

 別のフォロワーからコメントがついた。

 ――土曜の午前中から酔ってるの?

 ――飲んでないよ、今起きたばっかりで意識ははっきりしてるよ。とにかく、目が覚めたらベッドに手があったんだよ。

 ――疲れてるんだね。心療内科に行くなら早めに予約を取ったほうがいいよ。

 誰も信じてくれていないようだった。

 嫌な時代になった。ベッドから手が生えていても、AI画像だと思われてしまう。だが、AI生成を疑われるくらい突飛な状況であることだけはわかった。これは変な状況だ。


 実家の母や前日の夜に飲んでいた職場の同僚に話を聞いてもらおうかと思った。けれど、SNSの反応から、信じてもらえないのではないか、という不安が頭をもたげて、踏み切れなかった。それに、母とのトーク画面を開いた瞬間、わたしを小ばかにしたような母の顔が浮かんでしまった。ほら、あんたに一人暮らしなんてできるわけがないのよ。二十五年間、お母さんに甘えて生きてきたくせに。そう笑われるのが嫌で、私はアプリを閉じた。


 一時間経っても、二時間経っても、手はそこにあった。


 この手は何なんだろう。


 地縛霊、という言葉が思い浮かんだ。実はここは事故物件で、ここに手首の霊だけが残っているのではないか。不動産屋は何も説明してくれなかった。大島てるにも載っていなかった。この部屋で不審死を遂げた人はいないはずだ。だが、手首から先だけ切り落としていたらどうだろうか。手を切断しても死んではいないのなら心理的瑕疵物件にならないのかもしれない。亡霊か生霊かわからないが、ここに手だけを残していった、とか。そういえば、触った時、冷たかった。気持ちが悪くてもう二度と触ろうとは思わないが、とにかく、冷たかった。これは、死体の温度なのではないか。


 ベッドの上で体育座りをしたまま、不動産屋に電話をかけた。対応してくれたスタッフの女性は、その部屋で事件事故はありません、と言い切った。土地柄も悪くなく、日当たり良好で水はけも良い、いいところですよ。そんな、じゃあこの手は何ですか、と言い募ると、彼女はこう言った。

 ――ご実家のご家族にご連絡してはいかがでしょうか。本当に手が生えているのか、見ていただいたら。

 だめだ、それだけは。そう思いながら、すみません、友達のいたずらでした、と言って電話を切った。


 では、わたしに何か憑いてきたのだろうか。記憶にない。この一年ほど私の友人知人親戚に不幸はないし、事件事故に遭遇したこともない。強いて言えば通勤途中に人身事故で電車が止まったことはあったが、何千人という通勤客が乗っていた電車でわたしが選ばれる理由がわからない。それとも、あの何千人という通勤客全員についていったとか。人間の手はふつう二つしかないので、おかしな話ではないか。勤務態度もわたしとしては真面目なつもりで、上司に叱責されたこともなければ同期とは飲みに行くほどうまくやっており、人間関係は良好だ。恋人はいたことがなく、そもそもモテるタイプではないので、痴情のもつれはない。学生時代にさかのぼっても、恨まれるほどのことはなかったと思う。


 学生時代の友人に、わたしが知らないところで亡くなったり手首を切断したりした人はいるか、と聞いてみようかと思った。だが、アプリを立ち上げたところで、また、手が止まった。なんでそんなこと聞くの、と言われたら何と答えたらいいのか。SNSで、酔っているのか、疲れているのか、と返ってきたことを思い出す。わたしに内的な問題があると思われたらどうしよう。アプリを閉じる。


 手を撤去できないかと思い、恐怖心を抑えて、手の観察をした。


 白い右手だった。すべすべとした肌をしている。無駄毛がない。しわやしみもなく、うっすら青い静脈が見えるが、浮き出ているわけではなく、滑らかに見えた。どちらかといえば女性の手のような気がするが、わたしの手より大きく、指が長い。手タレの手だ、とわたしは思った。CMなどで、手だけ出演するタレント。見本のように美しい手。綺麗な手だった。


 こんなにまじまじと他人の手を見たのは初めてだ。


 白く整った手は、南の窓から入る日光に照らされて、とても綺麗だった。


 観察しているうちに、わたしの中から恐怖心が消えていった。この手がなんだかそういうオブジェ、そういうインテリアであるかのように思えてきて、だんだん不快感がなくなっていった。


 こうしてわたしは手との同居を始めた。


 母に蔑まれ、家に招くほど親しい友達もなく、仕事で日中長時間留守にするためペットも飼えないわたしにとって、その手はよい同居人になった。冷たく滑らかな肌に触れていると心地よい。


 手は腐らなかった。匂いもしなかった。しかし動くこともなかった。軽く握っているかのように指を曲げているが、この状態が一番楽なのだろうか。


 一回手を開いて見たことがある。

 関節はスムーズに動いた。機械の手ではなさそうだった。

 手の平にはきちんとしわがあった。

 わたしはネットで手相を検索し、うちの手の手相を見た。健康運よし、大器晩成型、長生きする。うらやましい手だった。しかし植物が夜閉じて朝開くように、うちの手は朝になると閉じてしまっていた。


 手にはラウンド型の爪がついていた。素爪だった。もったいない、こんなに綺麗な手なのに。

 わたしは時間もお金も節約したくてセルフネイルだ。だから自宅にはネイルケアグッズがひととおり揃っている。

 ベッドの手の爪の、甘皮を処理する。ヤスリで表面と形を整える。オイルでケアをする。ベースコートを塗る。

 セクシーな色にあこがれて買ったはいいものの、地味な自分には似合わないと思って使ったことのない、真っ赤なマニキュアを手に取った。

 五本の爪に、マニキュアを、塗る。

 うーん、綺麗な指先。


 うちには素敵な手がある。

 真っ赤なマニキュアの、美しい指先の右手だ。


「おやすみ」


 わたしは手にそうささやいてから、ベッドに転がった。


 今度は指輪でも買ってあげようかな。




<終わり>





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すてきな指先 日崎アユム(丹羽夏子) @shahexorshid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画