最終話 首輪なき獣たちの荒野

 警告音が、鼓膜を劈くように鳴り響いていた。

 都市の外縁部、最終廃棄ゲート。普段はゴミ処理車しか通らないこの場所が、今は赤色の回転灯で染まっている。


「車両停止! イグナーツ中隊長、貴官のIDは無効化されている!」


 拡声器からの怒号。行く手を阻むのは、かつての部下たち――ホワイト・スイーパーズの白い機動隊列だった。

 イグナーツは、奪取した装甲車のハンドルを握りしめていた。手汗で革が滑る。心臓が破裂しそうだ。

 隣の助手席では、ルカが静かに彼を見つめている。彼女は何も言わない。ただ、その瞳が「選べ」と語りかけている。

 ここで止まって処刑されるか。それとも、かつて自分が信奉した秩序を焼き払うか。


「……僕は、ゴミじゃない」


 イグナーツはアクセルを踏み込んだ。

 装甲車が咆哮を上げる。

 彼は片手で操作パネルを叩き、車両に搭載された暴徒鎮圧用の火炎放射塔を起動させた。


「僕は、選んだんだ!」


 白き貴族たちが作った「清潔な」炎が、今、彼ら自身へと牙を剥いた。

 火の壁が隊列を崩す。悲鳴と怒号。かつて自分が汚物であるアルファや無等級民に向けていた暴力が、反転して世界を焼く。

 イグナーツは泣き笑いのような表情でハンドルを切り、炎の隙間を突破した。

 巨大な防壁――『形而境界壁メタフィジカル・ボーダー』が迫る。都市を覆う不可視の精神防壁。これを越えれば、理性省の加護は解け、二度と戻れない。


「行くぞ、ルカッ!」

「ええ、連れて行って。地の果てまで」


 脳髄を引き裂かれるような浮遊感と共に、装甲車は境界を突破し、暗闇の荒野へと飛び出した。


 ◇


 都市の光が遠い点になるまで走り続け、燃料が尽きた場所は、岩と乾いた土だけの荒野だった。

 清潔な空気はない。土埃と、獣の糞の匂い、そして錆の匂いがする風が吹いている。

 イグナーツは車を降り、膝から崩れ落ちた。

 限界だった。緊張の糸が切れ、嘔吐感がこみ上げる。


 彼は自分の手を見た。煤で汚れ、震えている。

 制服の肩章は引きちぎれ、ただのボロ布になっていた。


「……はは。何もない」


 乾いた笑いが漏れた。

 地位も、名誉も、清潔な部屋も失った。ここには、彼がアイデンティティとしていた社会が存在しない。

 ただの、ひ弱なアルファベータ。野生のアルファに遭遇すれば一瞬で殺されるであろう、最弱の個体。


「僕は……馬鹿だ。ここに来て、どうするつもりだったんだ」


 その時、背後から温かいものが彼を包み込んだ。ルカが、汚れた彼の背中に頬を寄せた。


「そうね。貴方にはもう、何もないわ。空っぽの器ね」

「……ああ。そうだ。僕は、中身のない紛い物だ」

「だから、いいんじゃない」


 ルカが彼の正面に回り込む。

 月明かりの下、彼女の姿が揺らめいた。

 それは、イグナーツが支配しようとした「弱きメス」の姿でも、彼を支配した「強きオス」の姿でもない。

 ただ、彼の形を受け入れるためだけに存在する、原初の海のような姿。


「貴方は理性という檻を壊して、ここまで走ってきた。……本能だけで、私を守ってくれた」


 ルカの手が、イグナーツの股間に触れる。

 不思議だった。恐怖も、見栄も、劣等感もない。

 ただ熱い血流が、下腹部に集まっていく。彼の「豆電球」と嘲笑された部位が、今はただの男の証として、脈を打っている。


「愛して、イグナーツ。……今の貴方は、誰よりも美しい獣よ」


 獣。その言葉が、雷のようにイグナーツを貫いた。

 アルファになれなかったコンプレックス。ベータとして生きられなかった疎外感。その全てが今、肯定されたのだ。


 イグナーツは吠えるように彼女を押し倒した。

 固い地面。石ころが背中に当たるが、そんなことはどうでもいい。

 彼はルカの脚を割り開き、自身の全てを叩きつけた。


「ルカ……ッ! ルカッ!」


 挿入の瞬間、ルカの万能性器が、今までで最も完璧に彼に適合した。

 それは媚びへつらうような吸着ではない。

 彼の不格好な形、未熟な太さ、その全てを「これが正解だ」と言わんばかりに、慈愛を持って噛み締め、固定する。

 

 肉と肉が溶け合い、魂の境界線が消失する。

 イグナーツは、テクニックも道具も使わなかった。ただ一心不乱に、腰を振り、彼女の中に命を注ぎ込もうとした。


「あっ、あぁ……イグナーツ、貴方の匂い……!」


 ルカが背中に爪を立てる。

 彼女の体から、濃厚なフェロモンが溢れ出す。それはイグナーツの体臭――かつて「消毒液」と卑下した匂い――をベースに、野の花のような逞しい香りが混ざり合った、二人だけの匂いだった。


「俺は……俺は、ここにいる!」


 イグナーツは叫び、絶頂を迎えた。

 都市の中で感じていたような、射精後の虚無感はなかった。

 あるのは、心地よい疲労と、腕の中に確かな温もりがあるという充足感だけ。


 荒い息が整う頃、二人は泥と汗に塗れて抱き合っていた。

 東の空が白み始めている。

 遠くに見える白い都市は、墓標のように冷たく輝いていたが、もうイグナーツの心を縛ることはない。


「……行こう」


 イグナーツは立ち上がり、ルカに手を差し伸べた。


「どこへ?」

「さあな。でも、どこへだって行ける」


 ルカは少女のように笑い、彼の手を握り返した。

 その首にはもう、見えない首輪は存在しなかった。

 歪な鏡と、理性の皮を被っていた獣。二人は寄り添いながら、道なき荒野へと歩き出した。

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乾いた模造獣〜Reason,are you wet?〜 火之元 ノヒト @tata369

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