第4話 白き断頭台と、愛しき地獄

 その日、イグナーツは廃倉庫の固い床の上で目を覚ました。

 制服は皺だらけで、全身が軋むように痛い。特に腰回りの鈍痛は、昨夜の情事が夢ではなかったことを残酷なほど鮮明に告げていた。

 隣には、ルカが眠っている。

 昨夜、猛々しい捕食者としてイグナーツを貪り尽くした彼女は、今は無防備な少女のような寝顔を見せていた。その肌からは、イグナーツの情けない泣き言と、彼が絞り出したわずかな精液の匂いが混ざった、頽廃的な香りが漂っている。


(……僕は、堕ちたんだ)


 イグナーツは震える指で、彼女の頬に触れた。

 治安維持局の中隊長が、無等級民の娼婦に掘られ、あまつさえその快楽に溺れて朝を迎えた。これは不祥事などというレベルではない。反逆だ。生物としての敗北だ。

 だが、不思議と後悔はなかった。胸の奥にあった空虚な穴が、汚泥のような温かさで満たされている。


『中隊長、緊急招集です。至急、本庁へ帰投せよ』


 無機質な通知音が、その安らぎを切り裂いた。端末の画面には、最優先呼出を示す深紅のアイコンが明滅している。

 イグナーツは凍りついた。現実が、白い鎌を持って首を刈りに来たのだ。


 ◇


 理性省・本庁舎、最上階。

 そこは「白き貴族」と呼ばれるオメガ官僚たちが支配する、雲上の聖域だ。塵一つない純白の空間は、眩しすぎて目が痛み、無臭すぎて息が詰まる。


 イグナーツは直立不動で冷や汗を流していた。

 目の前のデスクに座っているのは、生殖管理部の幹部である男オメガだった。華奢で、ガラス細工のように美しい。だがその瞳は、虫けらを見るように冷え切っている。


「イグナーツ中隊長。君の最近の……『課外活動』については、興味深いデータが上がっているよ」


 幹部の細い指が、ホログラムの画面を弾く。

 映し出されたのは、地下水路の地図と、不鮮明な人影のヒートマップだった。

 バレている。いや、どこまで? あの倉庫のことか? それとも――。


「最近、地下に『鏡』が紛れ込んだという報告がある」


 幹部は歌うような口調で続けた。


「フェロモンを持たず、接触した者の精神を映し出し、狂わせる『ロー』。彼女はかつて、反体制派のアルファ組織と関わり、『感悟の聖像』の秘密データを持ち出した疑いがある」


 イグナーツの喉が鳴った。

 ルカだ。間違いない。彼女はただの娼婦ではなかった。都市の根幹を揺るがす爆弾だったのだ。


「君の管轄エリアだろう? まさか、優秀なアルファベータである君が、その存在を見逃しているわけがないよね?」


 幹部が微笑む。それは「答えを間違えれば、お前も廃棄処分だ」という死刑宣告に等しかった。

 アルファベータは替えが効く。この白い部屋の住人にとって、自分は使い捨ての文房具でしかない。


「……もちろんです。捕捉しております」


 イグナーツは、引き攣った笑顔で嘘を吐いた。


「素晴らしい。では、処分を許可する。生け捕りは不要だ。焼却せよ」

「――はッ」


 踵を返し、部屋を出る。

 廊下を歩くイグナーツの手には、重たい抹殺命令書と、装填された銃の重みがあった。

 殺さなければならない。自分の地位を、命を、そして「理性的な人間」としての尊厳を守るために。

 たかが、肉便器だ。僕を惑わせた魔女だ。殺してしまえば、昨夜の悪夢も終わる。また元の、潔癖で退屈な日常に戻れる。


 そうだ。それが正しい。それこそが理性だ。


 ◇


 倉庫に戻った時、陽は落ちかけていた。

 錆びた鉄扉を開けると、ルカはやはりそこにいた。逃げも隠れもせず、昨夜と同じ場所に。

 彼女はイグナーツが入ってくると、ゆっくりと振り返った。


「おかえりなさい、イグナーツ」


 その声を聞いた瞬間、イグナーツの決意が揺らいだ。

 彼女は、イグナーツが隠し持っている銃に気づいているはずだ。彼の殺気を感じ取っているはずだ。

 なのに、なぜ笑う?


 イグナーツは無言で銃を抜いた。銃口が震える。

 ルカの眉間に狙いを定める。引き金を引けば、それで終わる。


「……どうして逃げなかった」

「貴方が帰ってくるって、分かっていたから」


 ルカは静かに立ち上がり、銃口に向かって歩き出した。


「来るな! 撃つぞ! 僕は……僕は君を処分しなければならないんだ!」


 叫び声が裏返る。

 ルカは止まらない。銃口が彼女の胸に触れる距離まで近づき、そっと彼の手を包み込んだ。

 その瞬間、彼女の姿が揺らぐ。イグナーツの目には、彼女が自分自身に見えていた。

 白い制服を着て、必死に強がり、誰かに認められたくて泣いている、小さな子供のような自分自身に。


「撃てないわ、イグナーツ。だって貴方は、私の中に『本当の自分』を見つけてしまったもの」


 ルカが囁く。彼女の体温が、銃身を通して伝わってくる。


「あの白い塔に戻って、また消毒液の匂いを纏って生きるの? アルファに怯え、オメガに媚びて、誰でもない半端者として死んでいくの?」

「うるさい、うるさいッ! それがルールだ、それが秩序なんだ!」

「その理性は、貴方を幸せにした?」


 イグナーツの動きが止まった。

 幸せ?

 そんなもの、考えたこともなかった。

 常に比較され、見下され、去勢されたような気分で生きてきた。

 唯一、生きていると感じたのは――この薄汚い倉庫で、この女に犯され、獣のように喘いでいた時だけだ。


 カチャン。

 イグナーツの手から銃が滑り落ち、床に転がった。


 彼は膝から崩れ落ちた。もう、立てなかった。


「……僕は、終わった。何もかも」

「いいえ。始まったのよ」


 ルカが彼を抱きしめる。

 彼女の身体が変質する。今度は、男でも女でもない。ただひたすらに温かく、全てを包み込む母のような形へと。

 彼女の万能性器は、イグナーツの全てを受け入れるための、深く柔らかい空洞となった。


「行きましょう、イグナーツ。壁の外へ。……そこには首輪も、貴方を測る定規もないわ」


 イグナーツは彼女の胸に顔を埋めた。

 そこからは、消毒液の匂いも、埃の匂いもしなかった。

 ただ、荒野の風の匂いがした。


「……ああ。連れて行ってくれ。僕を、地獄へ」


 イグナーツは、今までで一番穏やかな声でそう答えた。

 二人の影が、廃倉庫の闇に溶けていく。都市のサイレンが、遠くで鳴り響き始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る