0006.『空気』を読む
「ヴェル」
小声で呼ばれて、目を開ける。
暗がりの中で、カルドが壁にもたれていた。
シンは寝台に座り、膝を抱えている。
ラグアスは、まだ目が赤い。
「……三番坑のこと、どう思う」
カルドの問いは、いつも通り短い。
俺は少し考えてから答えた。
「三番坑そのものは、もう使い物にならない。
あれを掘り返すには手間がかかりすぎる」
「そうじゃない。お前の“感覚”の方だ」
視線が突き刺さる。
五年も二十四時間一緒にいれば、
誤魔化しも効かないわけだ。
「……崩れた先に、穴がある。
ここの坑道とは別の空間に繋がってる。
空気の抜け方が変だ。広い場所だと思う」
シンが片眉を上げる。
「広いって、どれくらいだ?」
「少なくとも、この鉱山全部よりは広い。
いや、縦横のサイズは分からない。
けど……“深さ”だけは、ここより深い」
ラグアスが息を飲む音が聞こえた。
「……だけど、そこに、なにがあるかまでは
ヴェル兄さんでも分からないんですよね?」
そして案の定、カルドはすぐに本題を口にした。
「逃げ口になるか?」
その言葉は、ずっと自分でも考えていた。
この十年、何度も頭の中だけで、
逃亡ルートを描いては消してきた。
地上への道を探り、監視の死角を数え、
何百通りも“もしも”を並べてきた。
けれど、いつも最後には行き止まりになる。
この鉱山は、逃げられないようにできている。
だけど──
「……今までよりは、マシだと思う」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「三番坑の封鎖は大きな問題だ。
監督たちはしばらく意識を取られるだろう。
崩落の調査、死体の確認。
上への報告や穴の安全確認。
こっちの班にまで手を割く余裕は減るはずだ」
「もし、その穴の先が行き止まりだったら?」
シンが問う。
「そのときはそこで死ぬだけだろ。
ここで石に潰されるか、過労死か。
もしくは向こうで何かに殺されるかの違いだ」
ラグアスが唇を噛む音が聞こえる。
カルドはしばらく黙っていた。
寝台の軋む音だけが響く。
やがて、低い声が落ちた。
「……お前は“外れた感覚”で十年生き延びてきた。
今さらお前の感覚を疑う理由はない」
それは、信頼というには不器用な言葉だった。
けれど、カルドなりの全力なのも分かる。
「俺は行く。シン、お前は?」
「俺? そりゃあもちろん──」
シンはいつもの薄い笑みを浮かべた。
「お前がとんでもねぇ方向へ突っ込む時は、
俺みたいに頭のいい止める役が必要だろ?
……ついでに、一緒に外に出られたら最高だ」
「ラグアス」
名を呼ぶと、ラグアスは迷いながら顔を上げた。
「こ、怖いです。正直。
でも……ここにいても、いつか……、
今日みたいに潰されるかもしれないから。
……ヴェル兄さんたちと一緒に行きたいです」
返事は、十分だった。
翌日。
三番坑周辺への立ち入りは厳しく制限された。
だが、「上の人間」と「監督たち」だけの話だ。
俺たち奴隷は、遠回りしながら、
崩落箇所に近い坑道を通される。
荷車の運搬ルートが変わったおかげで、
逆に“穴の近く”を通る機会が増えた。
(……ここだ)
荷車を押しながら、俺は視線で場所を確認する。
崩落で塞がれた壁。
その隙間の奥に、細い風が吸い込まれている。
監督が二人見張りにつき、周囲を警戒している。
だが、彼らは奥の穴のことを
“危険物”としてしか見ていない。
中身までは知らない。
穴の向こうの空間の形なんて分かるはずもない。
(班の交代……見張りの交代……)
足音の間隔。
声の調子。
鎖の擦れる音。
全部を並べていくと、ある瞬間だけ。
わずかにこの崩落地点の監視が
一時的に薄くなる時間が見えた。
荷車の列が途切れ、
見張りが交代に動き、
監督が怒鳴り声をあげる。
それが、一瞬の“ズレ”が生まれる場所だ。
夜、寝台の上で、俺は三人にささやいた。
「明日の三番坑付近の運搬時。
荷車を二台、わざと転ばせる」
「おい、また面倒なこと考えてんな……」
「シン、お前には監督の注意を引いてもらう。
例の“口先だけは立派な奴隷”の芸を使え」
「おだててんのかバカにしてんのか分かんねぇな」
「カルドは転んだ荷車を立て直すふりをして、
岩を少しずつどかしてくれ。
ラグアスと俺は、その隙間から中に滑り込む」
「滑り込んだあと、すぐ気づかれるんじゃ……」
「三人とも一度には入れない。
俺が先に入って、少し入ったところで
合図代わりに石を落とす。
それを合図に隙を見て順番に飛び込んでこい」
カルドが、じっと俺を見た。
「……一度行ったら、戻れねぇぞ」
「ここだって、実質戻れねえだろ。
この穴は、俺らを外に出す気なんてない」
静寂。
それから、短い返事が三つ。
「分かった」
「はっ、人生で一番楽しい博打かもしれねぇな」
「……はい。ついていきます」
そして翌日。
荷車の列が、三番坑の近くに差し掛かる。
監督が怒鳴り、奴隷たちが黙々と荷車を押す。
三番坑の前には、崩落で塞がれた壁。
その奥にある穴からは、
相変わらず細い風が吸い込まれている。
(……ここだ)
俺は、荷車の片輪を、
わざと石の突起に引っ掛けた。
ガタンッ!!
荷車が派手にひっくり返る。
積まれていた石が崩れ、周囲に散らばる。
「なにやってやがるヴェル!!」
監督の怒鳴り声が飛ぶ。
よし、狙い通りだ。
「す、すみません! 足を滑らせて……!」
わざとらしく頭を下げると、
すかさずシンが口を挟んだ。
「監督ぅ、さっきの通路の角度が悪いんですよ。
俺たち前から言ってましたよね?
荷車の向き変えた方がいいって」
「誰が聞いてるかそんなもん!!」
監督の意識がそっちに向いた瞬間、
カルドが崩落跡の岩に手をかける。
大きな岩を動かすふりをしながら、
炭鉱で鍛えた力を込め、ほんの少しだけ、
隙間を広げるように力を加える。
ガラ……ッ。
空気の流れが、さっきより強くなった。
(……今だ)
俺は散らばった石を拾うふりをして、
岩の影に身を滑り込ませた。
崩落の隙間。
土と岩の間の、細い通路。
その向こうから、冷たい空気が流れてくる。
鉱山のものではない。
けれど、外の風とも違う。
息を飲み、体を横にして、
暗闇の奥へと進む。
背後で、監督の怒鳴り声と、
シンの軽口と、
カルドの低い声が入り混じる。
ラグアスの小さな足音が、すぐ後ろに続いた。
狭い通路を抜けたとき、
俺ははっきりと理解した。
ここは、もう“鉱山の中”じゃない。
空気の重さも、音の響き方も、
空間の広がり方も、全部違う。
十年かけて覚えた坑道の形から、
完全に外れた場所。
目の前には、暗く深い空間が口を開けていた。
(……迷宮か、なんだか知らねぇけどよ)
俺は、足を一歩踏み出した。
閉じ込められていた穴から、
初めて“別の穴”へと向かう一歩だった。
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