第33話 笠原の死
「フィィ。リリリリリリ」
森を抜けてくる風に乗って、
虫の鳴き声が運ばれてきた。
森の向こうには何があるのだろう。
私は無意識のうちに
中庭と森の境界に立っていた。
鬱蒼と茂る木々の間から
その奥を覗くと、
数メートル先には
ただ深い闇が広がっていた。
肌に触れる風が
急に冷たくなったように感じた。
ふいにその闇から
何かが飛び出してくるような気がして、
私は思わず身震いした。
「飲まないのかい?」
その声に振り返ると
缶ビールを手にした笠原が立っていた。
「そういえば。
店でも君が酒を飲んでる姿は
見たことがないな」
「あ・・ビールは苦手なんです」
私はそう言って誤魔化した。
「へぇ。
それなら甘くて飲みやすい物を
持ってくるよ」
笠原はニコッと微笑むと
私の返事を待たずに
クーラーボックスの方へ歩いていった。
私は慌てて小鳥遊の姿を探した。
小鳥遊は肉を焼いている歌川の横で
紙皿を持って立っていた。
その表情には微かに笑顔が見えた。
笠原はすぐに戻ってきた。
「竜眼のチューハイっていう
珍しい物があったよ。
これでいいかな?」
「あ、ありがとうございます・・」
私は笠原の手から
缶チューハイを受け取った。
「結女ちゃんだったね?
実は今回誘われた時、
一度は断ったんだ。
でも。
君が来ると聞いたからね。
考えが変わったんだよ」
そして笠原は白い歯を見せた。
それは。
世の多くの女性達を
一瞬で虜にするような、
魅力的な笑顔だった。
私は慌てて目をそらした。
小鳥遊と江藤の話を聞いた今では、
この笑顔を
簡単に信用することはできない。
私は小さく息を吸い込んだ。
その時ふと思った。
はたして江藤の話していた男と、
今目の前で
爽やかな笑顔を振りまいている笠原は
同一人物なのだろうか?
どちらにせよ。
小鳥遊を傷付けた事実は変わらない。
「・・ヒカルさんに聞かれますよ」
私は素っ気なく答えた。
笠原はチラリと周囲に視線を走らせた。
「あいつに聞かれたってどうでもいいさ。
別に俺達は
恋人同士ってわけじゃないからね」
恋人同士でもない2人が同じ部屋で寝る。
しかもベッドは1つ。
私はその点に突っ込まずに
「そうですか」と返した。
「参ったな。
その感じだと信じてないね?」
笠原は頭を掻いた。
その仕草が無邪気な子供のようで、
私は胸がキュンと締め付けられるような
不思議な感覚に陥った。
「そ、そんなことを言われても困ります。
そ、それに・・。
小鳥さんと別れたばかりですよね?」
私は敢えて小鳥遊の名前を出した。
「あいつに何を聞いたか知らないが、
俺もすごく迷惑してるんだ。
付き合ってる時から束縛が酷くてね。
1時間おきに連絡を入れないと
ヒステリックに怒り出す。
ついには俺の仕事にまで
口を挟むようになってね。
店に来て俺の客と揉めたことも
1度だけじゃない。
オーナーが出禁にしたら、
店の前で見張ってるんだ。
結局。
俺は店を辞めることになってね」
笠原はそこまで話すと
「はぁ」と溜息を吐いた。
「そ、そうなんですか・・?」
「ああ。
だから。
この場にあいつがいて
俺は驚いてるんだ。
いや。
恐れてるのかもしれないね。
ストーカーって何をするか
わからないだろ?」
そう言って笠原は眉をひそめた。
意外だった。
あの小鳥遊がそんなことを。
男女の仲は当事者にしかわからない。
私は小さく息を吸って
そっと目を閉じた。
徐々に周囲の雑音が遠ざかっていった。
いつの間にか。
濃い霧が一面を覆いつくしていた。
前も後ろも右も左も上も下も
わからない。
私は霧の中に立ち尽くしていた。
霧が私の全身を包み込んでいた。
私はその中から抜け出そうと足掻いた。
その時。
霧が目や口、そして耳や鼻の奥へと
染み込んでくるのを感じた。
私は咄嗟に目と口を閉じて耳を塞いだ。
すぐに息苦しさを覚えた。
呼吸ができない。
徐々に意識が遠のく中、
ふいに肺が空気で満たされるのを
感じた。
私は恐る恐る目を開いた。
霧が晴れていた。
視線の先に、
笠原とヒカルの姿が見えた。
2人は手にグラスを持って談笑していた。
ふいに彼女はグラスに鼻を近づけた。
そして興味深そうにその香りを嗅いだ。
その時。
どこからともなく
「乾杯」
という声が聞こえた。
その声に続いて
2人がグッとグラスを呷った。
一瞬の後。
笠原の表情が苦虫を噛み潰したような
しかめっ面に変わり、
次の瞬間、
みるみるうちに苦悶に歪んでいった。
笠原の手からグラスが落ちた。
笠原は両手で喉を押さえ、
何かを叫ぶように口を大きく開けた。
しかし。
声は発せられなかった。
そのまま笠原の体は崩れ落ちた。
倒れた笠原の体が痙攣していた。
ヒカルは呆然とその場に立ち竦んでいた。
一呼吸遅れて、
叫び声が響き渡った。
それは小鳥遊の悲鳴だった。
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