第31話 可淑―深層Ⅰ

 *



 可淑。可淑ッ! 可淑? 可淑ぃ~……。可淑! 可淑~。可淑……。可淑?! ……可淑。可淑。


――可淑、すまない。もし許してくれるなら、こんな父を、殺してくれ。



……



「可淑、お前はお母さんのようになってはいけないよ」


 わたしはあの人・・・に常々そう言われてきた。お母さんがどれだけ不誠実で、邪な人間だったのかを、延々と聞かされて育った。いつも具体的な話はもっと大きくなったらとはぐらかされて、結局、何故あの人がお母さんのことをそれほど毛嫌いするのかはわからなかった。

 ただ、家にはあの人しかいなくて、わたしのお母さんはいないということが、あの人の話にほんの少しだけ真実味があるような気がした。


「お父さま、今日もおはなし聞かせてくださいな」


 そう言ってわたしは、あの人の書斎にやってきてあの人に話をせがむ。すると、彼はわたしを膝の上に乗せて、仕事の話を物語のように語り聞かせてくれた。


 あの人は弁護士だった。わたしはあの人のことを、悲しい目に遭わされた人に寄り添い、悪い人にも手を差し伸べる、正義の味方だと思っていた。実際、彼は弁護士として法曹界に名を馳せたエリートだったらしい。


 わたしはあの人の書斎に入り込んでは、壁にずらっと並べられた本棚の本を読み漁っていた。難しい言葉が多く、あの人に何度も言葉の意味を教えてもらうのが申し訳なくて、お小遣いを貯めて、自分で辞書を買った。結局、辞書でわかることにも限りがあって、あの人に聞くこともあったけれど。


 わたしは幼いころから、将来はあの人のようになりたいと思うようになっていた。あの人は頭が良くて、たくさんのことを知っていた。そして、正義の味方だったから。わたしもそうなりたいと思ったのは、至極自然のことだったんだと思う。


「お父さまは、どうして悪いことをした人を庇うの?」


 わたしはいつだったか、あの人にそんなことを聞いたことがある。

 いい質問だねと言って、あの人はいつも通りわたしを膝の上に乗せて、優しく頭を撫でてくれた。


「私は別に、悪いことをした人を庇っているわけじゃあないんだよ。悪いことをしたなら、ちゃんと償いをしないといけない。謝って、自分がした悪いこと以上のいいことをして返さないといけない。だけどちゃんとそれをすれば、悪いことをした人だって許してあげたいと思うんだ。可淑は悪いことをしちゃったら、どうする?」


「ごめんなさいして、もうしませんって、約束する。それで、お手伝いたくさんするから、許してくださいって、する」


 うん、そうだね、とあの人はまた、優しく頭を撫でてくれた。


「でも、それでも許してもらえなくて、ずっと怒ってたらどうする?」


「え……どうしよう。……わかんない」


「どうしたらいいかわからなくて、困っちゃうよね。でも中には、簡単には許せないこともあるし、許せない人もいる。だから私は、できる限り許してあげたいんだ。そうでないと、彼らを許してくれる人が誰もいなくなっちゃうだろう?」


 あの人のこの考えは、素晴らしい考えだと思っていた。それが可能ならば、それが一番いいはずだと。



……



 わたしが八歳になる前の日だった。わたしはあの人の帰りが遅いのを心配して、眠いながらもずっと帰りを待っていた。そうしてようやく帰ってきたあの人は、スーツをだらしなく気崩して、酒とたばこの臭いに塗れて、玄関に崩れた。


「お父さま、おかえりなさいませ。……だいじょうぶ?」


「可淑ぃ~? まぁだ起きてたのかぁ~」


 顔は真っ赤で、息も酒臭かった。わたしは寝るように言いつけられていた時間を破って出迎えてしまったことを、怒られるのだと思った。


「ご、ごめんなさい、お父さま! 帰ってくるのが遅かったから、わたし、心配で……」


「他人のせいにするのかぁ? そう言えば許されると思ってるのか?」


 わたしの言葉に、あの人はバンと大きな音を立てて床を叩いた。

 あの人をこんなに怖いと思ったのは、この時が初めてだった。


「ひっ……! ごめんなさい、違うのっ! どうしたら、許してもらえますか……?」


「いちいち泣くな。頭に響く」


 あの人はわたしを黙らせようと、頭を思いきり殴りつけた。

 痛かった。でも、泣いたらまた殴られる。だから、涙は出るけど、嗚咽は出るけど、声を出さないように堪えた。そうしたら、許してもらえるかもしれないから。


 大人しくなったわたしを無視するように、あの人は台所に行ってしまった。わたしは許されたのか、許されていないのか。わからなくて、ふらつく足取りであの人の後についていった。


「何だ、鬱陶しい!」


 あの人は水を飲んでいた。でもわたしを見るなり急に怒り出して、飲んでいたコップの水をわたしにぶちまけた。

 ごめんなさいと何度も謝ったけれど、あの人はずっとイライラしているようで、一向に許してくれそうにはなかった。


「お前の顔を見ていると、あの女のことを思い出す」


 そう言ってあの人は、おもむろに包丁を取り出した。さすがに嫌な予感がして、逃げようとした。でも、慌てていたせいか、転んでしまった。あの人はわたしの足首を掴んで強引に引き摺り寄せて、わたしの身体をうつ伏せのまま押さえつける。


 声を上げる間もなく、背中に激痛が走った。ひんやりした金属の感触。じわぁっと広がる熱い感覚。身体が裂ける痛み。


「あの女のせいで! 俺は……!」


「ごめんなさい! ごめんなさいっ! ごめんなさい……!」


 何度謝っても、あの人は許してくれなかった。いや、この時のあの人は、もうわたしを見てなどいなかった。だから、何を言っても届くことはなかったんだ。

 何度も何度も、わたしの背に冷たい刃が押し込まれては引き抜かれ、また押し込まれる。わたしの身体から流れ出ていく熱い赤が、台所の床を染めていく。


「ごめ……なさ……い……」


 もはや声を振り絞ることすら叶わなくなって、身体から力が抜けていくのがわかった。失われた熱の分だけ、わたしの命がこぼれていってしまっていた。


 わたしが動かなくなっていくのに気づいたのか、背中を突くあの人の手が止まった。引き抜いた包丁を放り捨て、何故だか慌てたようにわたしを抱き起こす。


「ああ、ああ……。可淑……可淑……! ごめん、ごめんな。ごめんな、可淑……」


 泣きじゃくりながら、わたしを抱いたあの人は何度も何度も、懺悔するように謝罪の言葉を口にしていた。


 わたしは魔法少女。このくらいの傷ではわたしを殺すことはできない。だから、傷口は自然に塞がり、失われた血も急速に作られていく。こぼれていった命は、新しく作られることで、わたしを繋ぎ止めた。

 朦朧としていた意識がはっきりしてきて、わたしは抱き縋るあの人を突き飛ばす。


「可淑……? お前、身体……無事、なのか……?」


「ごめんって、言ったのに。何度も、何度も。わたし、悪くないのに。痛かった。怖かった」


 自然と涙が溢れ出る。これは悲しみの涙なのだろうか。憎しみの涙なのだろうか。自分でもわからなかった。ただこの時、わたしの中で“お父さま”は死んだ。正義の味方で、憧れだった“お父さま”は、消えてなくなってしまった。残ったのは、目の前の惨めな男だけ。


「ごめん、可淑……父さんを許してくれ! 私はお前を殺した。お前も父さんを殺していい。だからどうか、お願いだ! どうか許してくれ、可淑!」


「絶対に許さないよ。あなた、前に言ってたよね。殺してもらえるなんて思うな、罪の意識を背負ったままずっと生きて、生き続けて、悔い続ける人生を送る。それが一番残酷な刑だって」


 わたしにそう言い放たれて、あの人はがっくりと項垂れる。

 虚ろな顔をしながら、不気味なくらい生気の抜けた声で、わたしの名を呼び続けていた。

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