第24話 ふれる

 急いで家まで駆けこんで、全員が息を切らしながら玄関に倒れ込んだ。そんな様子に、瑠璃子さんと柊菜さんが心配そうに慌てて駆け寄ってくる。


「だ、大丈夫、みんな?! そんなにヤバい相手だったの?」


 とにかくその話は後で、と夕食を食べて順番にお風呂に入ることになった。可淑さんは、一人先にお風呂に入っていたらしい。

 話すにしても、一度整理して考えをまとめてからの方がいいと、調子さんの提案だったが、みんな異論はなかった。


 お風呂を出てから自室に籠ってしまった他の姉妹と違い、お風呂の順番を待つ静玖さんは、一人リビングのソファに座っていた。テレビを見るでもなく、スマホをいじるでもなく、ただただ座っていた。オレはそんな静玖さんの姿に、彼女の過去の記憶、それからあの男が静玖さんに言った言葉を思い返していた。


 記憶を見てしまったこと、彼女に言うべきなのだろうか。あれはもしかしたら、見られたくない記憶だったんじゃないか。あの記憶を見たと言って、それからオレは彼女に何と声を掛けたらいい。わからなくて、でも今は、彼女の傍にいたいと思った。


「……リン。どうしたの?」


 彼女の隣に座り、オレは言葉もなく彼女に抱きついた。本当は、彼女を抱きしめてあげたかった。でもこれじゃあ、オレが彼女に甘えているみたいになってしまった。でも実際、そうだったのかもしれない。


「今日、怖かった? よしよし、大丈夫だよ。大丈夫」


 大丈夫、大丈夫と言って、彼女は俺を抱きしめて、頭を優しく撫でてくれる。彼女のお父さんが、彼女にしていたように。


「静玖さん、あの……本当は、嫌じゃなかった? オレと一緒にお風呂に入ったこととか、今日もだけど、魔力をっていうのはわかってるけど、その……キス、したわけだし……そういうの」


 静玖さんが何か言いかけて、それを押し込むように息を呑んだのがわかった。だからオレは、続けざまに言う。彼女の本当の言葉が聞きたいから。


「今日の、ことも……静玖さんは、怖くなかった?」


 静玖さんは言葉を探すように、少しの間沈黙して、やがて口を開いた。


「わたしは……本当は、怖かったよ。でも、大丈夫。わたしは一人じゃないし。それに、守りたいものもあるから。怖がってるばっかりじゃ、ダメなんだ」


 トラウマを掘り返されても、そんな答えができるなんて。彼女は強い。オレが同じ立場だったら、そんな答えが吐ける自信はない。


 静玖さんは抱き締めていた手を緩めて、少しオレと身体を離す。そして、あまり笑わない彼女がほんの少しだけ、口元を緩めてみせたような気がした。


「リン、わたしに触ってごらん」


「えっと……触るって、言われても……」


 急に言われて、戸惑ってしまった。今更何を照れているのだろうと自分でも思う。


「どこでもいいよ。わたしの好きなところ、触ってみて」


 静玖さんの好きなところ——そう言われて、オレは自然に、それでも恐る恐る、手を伸ばし、触れた。彼女の柔らかい、黒髪に。その絹糸の束みたいな髪に指を通し、頭に、触れる。


「……顔?」


「髪です……」


 何でこんな、性癖を暴露させられてるんだろうか、オレは。

 彼女に触れるオレの手に、彼女の手がそっと重ねられる。


「わたしの好きなところ、髪なんだ。ありがとう」


 よくわからないけど、お礼を言われて無性に照れくさくなる。顔が妙に熱い。


「リンは、わたしに触れるでしょ? わたしが嫌だと思ったら、わたしには触れないよ。だから、嫌じゃないの」


 オレの見た記憶でも、静玖さんはお父さんに触られないようにしていた。あんな感じに、もし嫌だったならオレも拒絶されてしまうのだろうか。


「じゃあ、静玖さんに触れなくなったら、オレのことが嫌になったってこと?」


「そういうこと。だから気になったら、触ってみて」


 触ってみてって……簡単に言ってくれる。こんな、可愛い年上のお姉さんに触るなんて、男子中学生にとっては結構勇気がいることなんだと、相変わらず静玖さんはわかっていないんだ。


 すると不意に、静玖さんがオレをソファに押し倒した。オレを押さえつけて、自分は身体を起こす。そして、オレが何か言う前に、人差し指をオレの唇に優しく当てた。


「静玖さん、お風呂空きましたわ」


「ありがとう」


「一人でそんなところにいて、どうかしましたの?」


「ううん。何でもないの」


 そうですの、と言って、霧摘さんの足音がだんだん遠くなる。

 何故、静玖さんはオレを隠したのだろう。オレと一緒にいるところを、霧摘さんに見られたくなかったのだろうか。だとしても、結局その理由はわからなかった。


「ちょっと来て」


 静玖さんに手を引かれて、オレは脱衣場まで連れてこられた。

 何を、と言おうとすると、静かに、と注意されてしまった。彼女としても、他の姉妹にこの状況を見られるのは本意ではないらしい。


「ほら、脱いで」


「何でですか、急に。また一緒に入るつもりなんですか?」


「そうだけど。……嫌?」


 確かに、さっきはオレと一緒にお風呂に入ったのは嫌じゃなかったと、彼女は言ってくれた。だからって、それとこれとは違うだろう。そもそもあの時は不可抗力というか、事故で……事故だったのか?

 よく考えれば、オレからすれば事故だったかもしれないが、あの時静玖さんからは、確認することはいくらでもできたはず。事故を回避することはできたはず。それでも起きた事故。あれが事故ではない可能性も、否定はできない。


「……静玖さんは、嫌じゃないんですよね?」


「うん」


 即答された。これじゃあ、こんなに食い下がるオレの方が、わがままを言っているみたいじゃないか。悔しいことに。


「オレも、嫌じゃないですけど……恥ずかしいです」


「あー……えっと、大丈夫だよ。わたし、男の人の身体に興味ないから。絢乃とか、瑠璃子は違うだろうけど」


 そうか、彼女は……。お父さんとの記憶のことを考えれば、彼女は男の裸は見慣れているのだろう。男の裸に嫌悪感すら抱いているかもしれない。なんだか恥ずかしがっているオレがバカみたいだ。


 でも恥ずかしいのは、オレの裸が見られることだけじゃない。静玖さんの裸を見て反応・・してしまったら、それを見られるのは恥ずかしい。それに、彼女はそんなオレを軽蔑するかもしれない。

 ……お父さんのことを、思い出してしまうかもしれない。だから、気が進まなかった。


 っていうか、さらっと絢乃さんとか瑠璃子さんがむっつりだと暴露された。……本人には言わないでおこう。


「わかった、ちゃんと言うね」


 何を言うのかと思ったら、静玖さんは真剣な顔になって、今日はまだ、眠くない? と聞いてきた。

 そうだ、魔力摂取の後遺症。この間は耐え難い眠気に襲われて、そのまま翌日の昼まで眠ってしまっていたんだ。後遺症は眠気だけとは限らないけど、今のところ眠気はない。静玖さんは、それを心配してくれたのか。


「……今のところは」


「そっか。眠気って言ってたけど、たぶん眠気みたいに頑張ってれば起きてられるものじゃない。身体が魔力の沈着を拒絶してるんだと思うから。だから、眠っているんじゃなくて、気を失っている、の方が正しいと思う。それがもし、お風呂に入っている時に起きたら……と思って」


 そんなことがあれば、溺死する可能性もある。


「それも、わたしのせいだから。心配は、させてよ」


「ありがとう、静玖さん」


 オレの考えが甘かった。裸を見るとか見られるとか、そんなことよりももっと大切なものを、静玖さんは見ていた。


 彼女の記憶を見て何も思わなかったのか、オレは。彼女はたぶん本当に、裸を見るとか見られるとかには頓着していない。もっと、生きるか死ぬかみたいな、根源的な次元で物事を捉えているんじゃないか? 恥ずかしいという感情よりも、死ぬことに比べればいいとか、そういう考えなのではないか?

 今もその価値観でいるなら、少し悲しい。彼女は今はたくさんの姉妹がいて、守られている。愛されている。だからもっと、自分の望むようにいてもいいはずなのに。でもそれは、少しずつ、静玖さん自身が気付いていかなければならないことだ。オレにできることは、彼女が安心していられる場所、幸せを感じられる場所を提供することだけだ。


「わたし、先に入ってるから。自分のペースでいいから、おいで。……逃げないでよ?」


 静玖さんは身に付けているものを一つずつ脱いで、どんどんと肌色を晒していく。その姿が艶めかしくて、艶やかで、目を逸らしてしまったが、逸らした先にあった鏡で再び彼女の姿を捉えてしまう。


 彼女が風呂場に行った後で、オレも服を脱いで、深呼吸する。


 何を緊張することがある。彼女はオレを異性としてではなく、もう家族として見てくれているんだと思う。母さんと入っていた時と同じだ。何も恥ずかしがることはない。そう自分に言い聞かせて、オレも風呂場に入っていった。

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