リプレイス

丹路槇

リプレイス

 いちばん古い記憶は、5歳のクリスマスイヴの夜。

 目を開けるとまだ夜で、僕の枕元にはサンタクロースが立っていた。

 顔が近くにあったから、ずいぶん小さなサンタさんだな、と思った。暗くて顔は見えなくて、重たそうな上着を纏っているのが分かるくらい。コカ・コーラのCMで見るような、赤い上下の服を着ているのか、あまり覚えていなかった。

 サンタクロースは僕にこう言った。

「プレゼントは何がいいか、まだ聞いていなかったと思うんだけど」

 その晩も眠る前に、しつこく母親に希望を尋ねられていた。1か月前からサンタさんに手紙を書かないとプレゼントが届かないと急かされていたけれど、うんざりしてしまったのだ。

「お兄ちゃんと同じでいいんじゃない」

 だんだん適当になる母の声がけに「わかんない」で押し通した。じっさい、今も欲しいものが思いつかない。誕生日が11月で、ケーキもプレゼントも独り占めしたのに、またすぐにクリスマスがやってくる。5月生まれの兄はそれを待ち遠しくしていたから、彼が楽しめればそれでいいと思っていた。

 子どもたちが寝静まる夜中に、突然訪問してきたサンタクロースを前にしても、相変わらず僕はプレゼントを何も思い浮かべられない。

 布団から頭だけ出して、首を横に振った。サンタクロースはうーんと短く唸った。

「世の中にはあれもこれもほしいっていう子ばかりなのに、面白い。じゃあ、明日の朝、いちばん起こってほしいことは?」

 次の日はいつも通りの一日だった。母は仕事へ行き、兄は小学校、僕は保育園へ通う日だ。起きてしばらくは喜ぶ兄につられて兄弟で浮かれるかもしれないけれど、すぐにたしなめられ、場合により少し叱られて、いつも通り朝食を摂る。

 朝ごはんで浮かぶのは、ロールパンとコーンスープだった。兄はとうもろこしが大嫌いだった。毎日、息を止めて鼻をつまみ、目をつむってできる限り短い時間で一気に飲み干す。いちど、代わって飲んであげようと思って器を交換したら、僕ではなく兄が叱られてしまった。

 母は今年も寒くなってから毎朝コーンスープを出すようになってしまった。別のスープも飲みたいと陳情する兄に「そのうち好きになるわよ」と言って、取り合おうともしない。

 クリスマスの朝にコーンスープは可哀想だ。僕はささやき声でサンタクロースにお願いした。

「コーンスープがなくなってほしい」

 サンタがふんと息を吐いた。

「この世界から?」

「ううん、うちの中から。お母さんがもうコーンスープを作らなくなりますように」

「なるほど」

 サンタクロースは黒い皮手袋を嵌めたままの手で、ぱちんと一回指を鳴らした。

「明日が、最高の朝になりますように。メリークリスマス!」

 瞬きすると、外套を着たサンタクロースは消えていた。

 翌朝はいつもより少し早く目が覚めた。先に布団を抜け出して開けた包装紙の波にうつぶせるようにしてプレゼントを抱えている兄と目が合った。目当てのゲーム機とソフトをもらえたらしく、頬を赤くして喜んでいる。

「楊も、夜一緒に遊ぶだろ」

「触っていいの?」

「コントローラーふたつ入ってた。いっこ貸すよ」

「やった!」

 それで僕はもう自分も兄と同じプレゼントをもらった気になり、夜に見た夢のこともすっかり忘れてしまった。

 ふと気がついたのは、朝食の時に兄が口を丸くすぼめながら、ポトフを頬張る様子を目にした時だった。

「……あれ、コーンじゃない」

「なんか飽きちゃったのよ。また今度ね」

 そう答えたのは母だった。

 夢で願った「コーンスープがなくなる」プレゼントを、僕はちゃんと受け取ることができた。

 サンタクロースは本当にいるんだ。絵本やテレビで見るより、少し小さかったけど、一晩で世界中の子どもに配達するんだから、何人いたって本物には変わりないのだろう。


 それから、僕の毎年のクリスマスプレゼントは、「ひとつ消えると嬉しいもの」になった。

 通学路でいつも吠えてくる大型のボーダーコリーは犬小屋だけになり、バス移動の校外学習は中止に、塾の嫌いな先生は突然姿を見なくなった。兄が構ってくれなくなった腹いせにゲーム機が壊れるように仕向けた年もあったけれど、逆にそれが最新機種を誕生日に贈ってもらう口実になり、兄のことでお願いを考えるのはやめた。

 夜中に僕が目を覚ますまで枕元に立って待つサンタクロースは、中学生になっても変わらず毎年やってきた。クラスで誰もサンタクロースを信じていないばかりか、親からもプレゼントをもらっていない同級生がちらほらいる頃に、いちどだけ、寝たふりをしてやり過ごそうとしたことがある。

「起きてるだろ、ほら、今年は何にするんだい」

 閉じた瞼の上からこちらを見下ろすサンタクロースの影が見えた。彼もいつの間にか背が伸びていて、枕元に立つ時に頭がずいぶん天井に近づいたなと思った。

「何もない」

「何も? 何もかも無くすってことでいいのかな?」

「ちがう」

 大急ぎでかけ布団を被り直す。ほんの少し、父と激しい口論をする兄の姿が浮かんだ。僕より少し背の高い体いっぱいに怒りを溜めて、兄は父に抵抗していた。父は彼の中で決められたシナリオと選択だけを兄に強要していた。両者は接触のたびに疲弊していた。

 口論が終わり、ほっとして涙ぐむ兄の横顔を見たことがある。目を強く閉じて体を丸め、その時の記憶を思考の隅に押しやった。

「いらない。今日は帰って」

 パチン! と指を鳴らす音がした。

「それじゃあ、明日も最高の一日を。メリークリスマス!」

 以来、父は家族の前で一言も口をきかなくなった。頑なに自分の意思でそうしているのか、なにかトラウマのようなものでそうなってしまったのか、分からなかった。

 母は喋らない父に変わらず優しかったが、誰も彼を気の毒だとは思えなかった。

 こんな形でおとずれてしまったが、我が家は再び平穏を取り戻した。


 サンタクロースの訪問は続く。

 兄はひとり暮らしを始めて実家から出ていた。僕は地元の公立高校に通い、毎日部活と勉強ばかりしている。予備校に通い始めてから平日に母ともほとんど会わなくなっていた。

 深夜に訪ねてきた足音を確認して、布団の中で瞬きをする。ずっと歩き方が似ていると思っていた。声は少し違うが、小さい頃の兄の話し方によく似ている。顔は見えないが、この頃ジムに通いだしたらしい兄のボディラインにも見える気がした。

 ひょっとしたらサンタクロースは兄の悪戯なのではないか。それか、母親の提案で次男のプレゼントを聞き出すのを目的に始められた、家族の儀式みたいなものかも。

 ただそうだとしても、とっくに終わっているべきイベントに違いなかった。外で生活している兄が、わざわざ実家に訪ねて弟の枕元に立つまでの労力を使うことも理解に苦しむ。

 きっと今日が最後の晩だ。プレゼントは先に決めていたので、サンタクロースが枕元に立つと、僕は早口にこう告げた。

「『きみ』を無くしてほしい。来年からもうサンタクロースが僕のところへ来なくていいように」

 パチン! 指の鳴る音を聞いてから、僕はすぐに眠った。そういえば、兄はこのあとひとりで賃貸の家に帰るのだろうか。もちろん今まで彼の新居に招かれたことはない。ああ、例えば「実家がなくなる」というお願いごとにすれば、僕は兄の家に行くことができただろうか。


 共通試験を目前に、推薦入試の合格発表が出た。レベルを下げて指定校受験だったから特に緊張もしなかったが、年末年始のラストスパートに賭ける級友を尻目にひとり抜け駆けをしたような気持ちになった。親友の三嶋にも「楊ちゃんとは共テ終わるまで会わないわ」と言われているので、年末年始も実家に引きこもることにしていた。

 4月から通う大学は家から片道一時間半ほどで、高校の通学に比べ三倍の時間がかかる。しかし学生の身分で家を出て下宿するほどではないだろうとぼんやり思っていたら、兄の方から、居候できるか見に来れば、と連絡が来た。確かに彼のひとり暮らしの場所は大学から電車で三駅と好立地の場所だったが、そんな展開を考えてもみなかった。僕は彼のことが好きだったけれど、兄は昔から僕のことが嫌いだったと思う。いったい、どういう風の吹き回しだろう。

「学校いつ終わるの」

「24日だけど」

「そのあとそっちで予定は」

「……なにもないよ。なんで?」

「じゃあ24日、19時に駅出たとこ」

 最寄り駅に着くと、黒のスペーシアは先にロータリーに停まっていた。てっきり適当に地図アプリを使って家まで歩けと言われるだろうと思っていた僕は驚いた。

 さらに驚いたことに、助手席に乗ると、車内はチキンの匂いでいっぱいになっていた。

 おかしい。僕もまったくひとのことは言えないけれど、兄はこういうイベント商戦の餌食になって金を使うことが嫌いだった。思わず振り返ると、カーネルサンダースと目が合った。冗談で、太らせてあとで食うつもりかと尋ねたくなる量だった。ケーキの箱もホールサイズが置いてある。

「もしかして、彼女と予定あった? 部屋見たらすぐ帰ろうか?」

 兄は返事をしなかった。車で五分、すぐにマンションに着く。ふたりで箱をひとつずつ持って階段をのぼり、彼が三階の角部屋で足を止めた。兄が鞄から鍵を探すのを待つ間に、ふと玄関のドアを見る。

 そこには珍しい彫刻みたいな加工がしてあって、大きな葉が伸びた蔦のようなものが描かれていた。真ん中にはエンブレムのように楕円形が配置されているが、そこには取っ手がついていて、円には滑らかな波が立っている。

「へえ、珍しい、何の絵……」

「コーンスープ」

 遮られた声の意味するものに、僕はえっと聞き返した。

「なに? スープなの?」

「コーンスープ」

 今度もはっきりと兄に告げられて、僕は思わず肯いた。中身がコーンである保証はないはずだったが、彼が頑としてそう言う時、僕は昔から反抗しないことに決めていた。

 昔、彼が息を止めて飲むほどコーンスープが嫌いだったことを思い出した。物件選びでコーンスープだと分かっていながら、どうして彼はここを住居と決めたのだろう。魔除け?

 促されて部屋へ入り、玄関で靴を脱ぐ。ここが洗面所、こっちがトイレ、案内されている間に、ふたつ目のドアにたどり着く。

 ドアには木板の土台が当てられた、動物の剥製がくっついていた。首から上だけ残ったそれは、両目を開き軽く歯を見せている、オオカミかと思ったが鼻が少し短かった。小学校の通学路にいた、よく吠える犬。

「洸くん、これ……」

「ボーダーコリー」

 兄はコーンスープと同じように僕に説明した。

 リビングの前のドアへ向かう前に、意を決して彼ににこう尋ねた。

「洸くんがサンタで、僕のを集めてくれてたってこと?」

 すると兄は切り揃えた前髪の奥で眉を吊り上げ、わなわなと震え始めた。こんなに怒っている兄は初めてだった。

「これはお前が持ってきたんだろ」

「えっ」

「これは二年目のクリスマス」

 兄の拳が、トイレのドアを叩いた。ドアはすごい音を立てて、剥製は土台の木板ごとぐらぐらと揺れた。振り子のようにぶらぶら往復する剥製の首は、角度が変わると歯が光って口の中がきらきらと光った。生きている時のそれが唾液をだらだらと垂らしながら銃声みたいに吠えていたのを思い出した。

 コーンスープとボーダーコリー。兄が僕の手をとり、リビングへ連れて行く。

 奇妙な形をしたガラスの戸が、すぐにバスの形だと分かった。プシュッとエアシリンダーの音と共に開く。リビングはぶるぶるとエンジンの振動みたいなもので常に揺れていた。そしてバスが発車する時のようにふわっと体が前に押しやられると思えば、本当に乗車しているような慣性が働き始める。堪らずその場で四つ這いになって呻いた。猛烈な速さで口から唾が溢れてくる。ひどい胸のむかつきだった。声を出して体の中から追い出したかったが、しゃがれた声と咳が出ただけだった。

 兄が言った。

「ここは三年目」

 次の扉は横に細長い納戸だった。静止する暇はなかった。引き戸を半分開けると、中からスーツを着た腕がだらんと落ちてきた。兄はそれを収納に収まりきらない荷物のように、なんでもない様子でひょいと元に戻し、しまった。

「こいつは四年目。ずっとここにいる。体は折り畳まれているし、ずっと喋らない。おまえこいつの何が嫌だったの」

 腕は通っていた塾講師のものだった。僕はそのひとの体臭と口をちゅっちゅっと吸うような癖、送迎にくる母への媚びた笑いがどうしようもなくだめだった。うずくまったところから起き上がれなくなって、噛み締めた歯の間からずるずると唾液が漏れ出てしまうのをどうにか耐えた。

 兄の部屋は僕が消滅させたものの再出現(リプレイス)ギャラリーになっていた。いちばんひどいのは父の罵詈雑言だった。おそらく本物の父であれば悟性で抑えていたであろう、強く汚い、無遠慮な罵倒が小さな暗闇の中でずっと響いていた。

「引っ越しは?」

 震える声でどうにか尋ねると、兄は父の声に怒鳴り返してから答えた。

「何度かした。物件を探して、賃貸の契約して、荷物を運んで、新しい部屋を片付けて。ひと通りやって、しばらくして、前とまったく同じところに住んでるって気づく。面白いだろ」

 面白くない。逃げずに何年もこんな恐ろしいところに住んでいる兄のことも理解できなかった。それとも何か、彼は何かここですべきことがあるのか。

「あとは、寝室のドアだけなんだけど」

 そう言って、リビングの先にある茶色いドアを見せられた。コーンスープ、ボーダーコリー、校外学習のバス、塾の先生、長い踏切、履き心地の悪い靴、兄に告白してきた名前も知らない女の子、父の罵声……。叶ったプレゼントはもう終わりのはずだった。あとは、最後の年の。

「今日、あいつ来るぞ」

 惨めに這いつくばっている僕の隣で、兄はフローリングにあぐらをかいた。買ってきたチキンの箱を開けている。紙ナプキンを取り出し、鶏の足を摘んで油がついた指をいちど丁寧に拭いてから、好きな肉を選んでぱくぱくと食べ始めた。うまい、と言って、また齧りつく。

 リビングはバスの移動に合わせてまだ揺れていた。ぶるんと伝わる振動や、車内に漂うシートの臭いまで伝わってくる。

「楽しみだな」

 兄の声は少し笑っているみたいだった。子どもの頃でも、彼からこんなに優しく話しかけられたことはないかもしれない。

「クリスマスの贈り物、いよいよこれで終わりだってよ。なあ、あいつ、本当にお前にそっくりの顔だな」


〈了〉

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