第2話 ナラティブの始まり

 街を駆け抜ける。

 人の波をかき分け、露店の間を縫うように走る。


「どいてくれ!」


 怒号すら出せない。ただ息が荒れる。


 腕の中の少女は、羽のように軽かった。まるで、もう半分、こちら側にいないかのように。


 彼女――ユミル・ナザリアの顔色は、灰色に近い。唇は青く、乾いていた。


(魔獣による裂傷……? そんな傷、どこにも――)


 いや、ある。


 腹部の下。布の上からでは分からなかったが、微かに赤黒い染みが広がっている。


 血。しかも、新しいものではない。


(さっき襲われたんじゃない……すでに、時間が経っているのか……!)


 なら、治療だ。回復薬。治癒魔法。何でもいい。医者に……!


 やっと見つけた小さな診療所の扉を、俺は叩いた。


「誰か! 助けてくれ!!」


 老いた医師が顔を出し、少女を見るなり眉をひそめた。


「……中へ。」


 診療台に寝かされ、衣服が開かれる。


 そして見えた。


 腹から胸にかけて、鋭く裂かれた傷跡。付近の肉は黒ずみ、明らかに普通の傷ではない。


「魔獣の爪か……毒も回っているな」


「助けられないんですか?」


 俺の声は、思ったより低く、かすれていた。


 医師は首を横に振る。


「治癒魔法が使える神官なら可能性はあるが……この街にはおらん。それに、この傷は深すぎる」


 視界の端に、あの文字が浮かぶ。


『死亡まで:58分』


 数字は、容赦なく減っている。


 ユミルの瞳が、ゆっくりと開いた。


 焦点は合っていない。それでも、俺の姿をなんとか捉えようとしているのがわかった。


「……あ、なた……?」


「大丈夫だ。もうすぐ楽になる。だから、喋らなくていい」


 無意識に、嘘をついていた。


 頭がずきりと痛む。どうして今、頭痛なんだ? だが、そんなことには構っていられない。


 彼女は、かすかに笑った。


「……よかった。最期に……人の顔が、見られて」


 ぞくりと、背中が冷たくなる。


「俺は、アルトだ。君の名は……」


「……ユミル、です」


「ユミルだな……大丈夫。絶対助かる」


 また嘘を重ねた。頭の痛みが増していく。


『死亡まで∶10分』


 ――救えない。数字の減少が止まらない。医者は手を尽くしてくれている。だけれど、ユミルの呼吸は浅くなり、数字はどんどん減っていく。


 悔しい。俺にはなにも出来ないのか。そう思う自分に驚いた。悔しい、悲しい、やるせない……そんな感情が渦巻く中、何故か俺の頭に浮かんだ疑問。


 俺はどうしてそう思う?


 それがまるで違和感であるかのような思考。そんなはずないのに。


 ユミルの少しだけ、呼吸が苦しそうになる。

 その指先が、俺の袖を掴んで、ハッとした。


「お願いが、あります……」


「なんだ?」


「……私が、ここにいたこと……忘れないで……」


「お、おい……まだ死ぬとは……」


「大丈夫、です。私、わかってますから……だから……お願い」


「……わかった」


 それは、約束だった。


 いや、呪いかもしれない。


 俺が手を握ると、ユミルは安心したように目を細めた。


 次の瞬間、胸が大きく上下し――


 それきり、動かなくなった。


 沈黙。


 音が、消えた。


 視界の文字が、静かに書き換わる。


『死亡まで:0』


 俺は、その場から動けなかった。


 何もできなかったのに。知っていたのに。残り時間まで見えていたのに。


 ――救えなかった。


「……死を見ても、人は救えないのか」


 言葉にならない問いが、胸の奥で何度も反響する。


 医師が小さく息を吐いた。


「若い命だな……」


 だが俺には、それすら遠い世界の声に聞こえた。


 ただ、握った手の温もりだけが、現実だった。


 そして、そのとき、気づいてしまった。


 彼女の体に、もう一度だけ、鑑定が働いていることに。


『名前:ユミル・ナザリア

 状態:死亡

 死因:魔獣による裂傷で失血死

 享年:13

 本来の寿命∶24』


 俺は、目を閉じた。


 ――もし、あの時。

 ――もし、もっと早く。

 ――もし、俺が追放されなければ。


 もし。


 もし。


 もし。


 だが、世界は「もし」を、許さない。

 だからこそ、俺にこの目を与えたのか。


 死を知る目を。


 抗えない未来を突きつけるために。


 それでも俺は、拳を握った。


 逃げないために。知らなかったふりをしないために。  次は、見捨てないために。


「……ユミル」


 たった一人の誰にも知られない少女の死が、今、俺の中で「意味」を持った。


 それが、俺の物語の――


 はじまりだった。

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