EP.006「八重奏の調べ」

魂の深淵は、エリアスが想像していた以上の広がりを持っていた。


目を閉じ、内側へと沈んでいくと、そこには無数の記憶の断片が星のように散らばる宇宙が広がっていた。自分の記憶——幼少期の思い出、家族の笑顔、失恋の痛み、大学での日常。それら全てが、淡い光を放って浮かんでいる。


だがその奥に、異質な光があった。より古く、より深い、金色に輝く記憶の星々。


エリアスはその方向へと「泳いで」いった。光に近づくにつれ、見知らぬ風景が視界に浮かび上がる。第0世界の研究所、エラ・プリムの若き日々、装置の暴走、世界の分裂——全てが鮮明に、まるで自分の記憶のように感じられる。


そしてついに、彼は「彼女」にたどり着いた。


光の中で、一人の女性が座っていた。外見はエラに似ているが、より若く、16、7歳くらいだ。彼女は膝を抱え、うつむいている。


「君が…エラの欠片?」


女性が顔を上げた。その目には、100年の孤独が詰まっていた。


「私はエラでもあり、君でもある」


彼女の声は二重に響いた——少女の声と、エラの声が混ざり合っている。


「分裂した時、私の魂は八つに砕けた。七つは様々な時代に転生し、一つはここに残った」


「ここに?」


「君の魂の核に」


彼女は立ち上がり、エリアスに近づいた。


「君が生まれる前から、私はここにいた。君の成長を見守り、君が共鳴能力に目覚めるのを待っていた」


エリアスは混乱した。彼の人生は、全て予定調和だったのか?彼の選択は、本当に彼自身のものだったのか?


「違うよ」


少女は首を振った。彼女の感情が直接エリアスに伝わってくる。


「君は自由だ。私はただの『可能性』に過ぎない。君が私を呼び起こすかどうかは、君自身が決めること」


「呼び起こしたら…君はどうなる?」


「私は君と一つになる」


少女は微笑んだ。


「君は完全な調和の共鳴体となり、八重奏を導くことができる。でも、代償もある」


「代償?」


「君の『普通』の人生は終わる」


彼女の目に悲しみがよぎった。


「もう二度と、元の世界に戻ることはできない。君は次元の守護者となり、全ての世界の均衡を保つ役目を負うことになる」


エリアスは考えた。日本での平凡な生活、両親、友達——全てを捨てるのか?知らない世界の運命のために?


でも、彼は既に決断していた。リリアン、マルコ、ソフィアに出会った時から。この世界の人々を守ろうと思った時から。


「僕は選ぶよ」


エリアスは言った。


「君と一つになることを」


少女の目に光が灯った。


「では、私の名を呼んで。私の真の名を」


「名?」


「魂の名だ。エラ・プリムの欠片としての、私だけの名」


エリアスは直感でわかった。彼はただ知っていた——彼女の名前を。


「リリエン…」


少女の顔に驚きと喜びが広がった。


「よく覚えていたね、君の前世で私につけてくれた名前を」


光が爆発した。リリエンは黄金の粒子となり、エリアスの胸に流れ込んだ。知識、記憶、力、そして深い愛情——全てが一つになる。


現実に戻った時、エリアスは変わっていた。


彼の目には、以前にはなかった深みがあった。周囲の空間が、より鮮明に、より多層的に見える。無数の世界の『層』が重なり合い、それぞれが微妙に異なる色合いを放っている。


「エリアス?」


リリアンが心配そうに近づいた。


「大丈夫だ」


エリアスの声には、新たな確信が宿っていた。


「八重奏の最後のピースが揃った」


エラ・プリムは満足そうにうなずいた。


「では、始めよう。アザゼルを止め、次元の修復を」


しかし、アザゼルと使徒たちは既に50メートルまで接近していた。街の半分が『無』に飲み込まれ、透明化している。


「時間がない」


マルコが報告した。


「市民の避難は70%完了。だが残り30%は危険区域に取り残されている」


カイは迅速に計画を立てた。


「エリアスが中心で調和を導く。リリアンとオルタスが理論的サポート。ソフィアが感情的増幅。マルコが防御。私は空間の安定化を担当する」


「私の役目は?」


エラが尋ねた。


「あなたは装置の起動を」


カイは廃墟の奥を指さした。


「あそこに、あなたが100年前に使った原型機の残骸がある。私が長年隠し守ってきたものだ」


八人はそれぞれの位置についた。エリアスは円の中心に立ち、他の七人が周囲を取り囲む。


エラは廃墟の中へと走り去った。


アザゼルが叫んだ。


「愚かなり!母の過ちを繰り返すのか!」


彼は手を振り、使徒たちの大群を突撃させた。


「今だ!」


エリアスは目を閉じた。


八人の共鳴が同時に始まった。


 最初に感じたのはソフィアの感情——希望、後悔、償いへの願い。温かいオレンジ色の光が、彼女から溢れ出た。


 次にリリアンの分析力——冷静で鋭い青い光。次元パターンを理解し、制御する。


 オルタスの記憶——深い緑の光。過去の知識、失われた技術。


 マルコの守護意志——燃えるような赤い光。守りたいものへの強い決意。


 カイの旅する魂——変幻自在の虹色の光。無数の世界を渡って得た英知。


 そしてエリアス自身の調和——純白の光。全ての色、全ての音を一つに統合する。


七つの光がエリアスに集まり、混ざり合う。最初は不協和音だった——異なる周波数が衝突し、ぶつかり合う。


「集中を!」


エリアスは叫んだ。


「私のリズムに合わせて!」


彼は頭の中の鈴の音を、完璧な調和へと導き始めた。八つの旋律が、一つの交響曲へと変化していく。


その音楽は現実世界に影響を与えた。光の波紋が八人から広がり、使徒たちを押し戻す。触れた使徒たちは『無』から『存在』へと変化し始め、輪郭がはっきりし、色を取り戻す。


「効いている!」


ソフィアが叫んだ。

しかし、アザゼルは動じない。


「小さな抵抗だ」


彼は自らの胸を突き刺した。暗黒のエネルギーが噴き出し、裂け目をさらに広げる。今度は、裂け目から何か別のものが現れ始めた——巨大な、無数の手を持つ影の怪物だ。


「次元の歪みそのものが具現化した!」


リリアンが分析した。


「物理的な攻撃は通用しない!」


その時、エラが戻ってきた。彼女が運んでいるのは、古びたが精巧な機械の一部だった。


「装置の核心部分だけ残っていた」


エラは息を切らしながら言った。


「でも、起動するには莫大なエネルギーが必要だ。八重奏の力だけでは足りない」


「どれだけ必要だ?」


カイが叫んだ。


「一個のパラレルワールドを消滅させるほどのエネルギーが」


全員が凍りついた。世界を一つ犠牲にしなければならない?


「違う」


エリアスが言った。


「犠牲は必要ない。代わりに…」


彼は閃いた。リリエンの記憶から得た知識が、解決策を示していた。


「代わりに、『可能性のエネルギー』を使うんだ」


「可能性の?」


オルタスが理解に苦しんだ。


「全てのパラレルワールドには、無数の可能性の分岐がある」


エリアスは説明した。


「ある世界では私が別の職業に就き、ある世界ではマルコとソフィアが会わず、ある世界ではリリアンが違う研究をしている」


彼は八重奏の光を装置へと向けた。


「その『実現しなかった可能性』のエネルギーを集める。消滅させるのではなく、『可能性の海』から借りるんだ」


「危険すぎる!」


カイが警告した。


「可能性のエネルギーは不安定だ。制御を誤れば、現実そのものが崩壊する!」


「でも他に方法はない」


エラはうなずいた。


「エリアス、君にできるか?」


エリアスは深く息を吸った。彼は目を閉じ、リリエンと完全に一体となった。


「やる」


八重奏の光が、新たな段階へと移行した。それぞれの光から、無数の「枝」が分かれ始める——可能性の分岐だ。


エリアスは見た。無数のパラレルワールドの、無数の可能性。ある世界では彼が英雄となり、ある世界では裏切り者となる。ある世界でリリアンが彼を愛し、ある世界で敵対する。


その全てから、ほんのわずかなエネルギーを「借りる」。消滅させず、ただ一時的に使用する。装置が輝き始めた。古代の機械が、現代の技術をはるかに超えるエネルギーで起動する。


「成功だ!」


エラが叫んだ。


「でも時間がない!修復プロセスを開始しなければ!」


しかし、アザゼルと影の怪物は既に眼前まで迫っていた。


「私が時間を作る」


そう言ったのは、ソフィアだった。


彼女は円から一歩踏み出し、エリアスを見た。


「私がアンカーになる。一年間、歪みの中心にいてわかった。私の感情が次元現象を安定させることを」


「ソフィア、やめて!」


マルコが叫んだ。


「お前をまた失うなんて!」


「お兄ちゃん、ごめんね」


ソフィアは微笑んだ。


「でも、これが私の償いなんだ。私が引き起こしたことの」


彼女は全身から光を放った。それは今までの共鳴とは違う、自己犠牲の光だった。


「ソフィア、待って!」


エリアスが手を伸ばした。


「エリアス、装置を起動して」


ソフィアの声は確信に満ちていた。


「私は『生きた装置』になる。八重奏の核として、エネルギーを安定させる」


彼女は影の怪物に向かって走り出した。怪物は無数の手を伸ばし、ソフィアを捕らえようとする。


その瞬間、ソフィアが全身を光に変えた。彼女は巨大な水晶のような構造体へと変化し、怪物の攻撃を全て吸収する。


「ソフィア!」


マルコの叫び声が街に響いた。


しかし、ソフィアの光は消えなかった。彼女は透明なクリスタルとなり、内部で微かに鼓動しているのが見える。彼女は怪物を拘束し、アザゼルを封じ込めていた。


「今だ!」


エラが叫んだ。


「修復を開始するんだ!」


エリアスは涙をぬぐい、装置へと全力を注いだ。八重奏のエネルギーが、ソフィアの犠牲によって安定し、装置は完全に起動した。


光の柱が空へと昇り、裂け目へと向かう。裂け目は閉じ始め、使徒たちは元の世界へと引き戻されていく。


アザゼルは最後の抵抗を見せた。


「母よ…なぜ…」


「アザゼル、もう苦しまなくていい」


エラは息子に向かって歩み寄った。


「君たちの苦しみは、私の責任だ。だからこそ、終わらせる」


彼女はアザゼルを抱きしめた。母子の光が一つになり、裂け目へと吸い込まれていく。


「母…」


「さようなら、私の息子よ」


アザゼルとエラは光の粒子となり、裂け目と共に消えていった。

装置は最大出力に達し、修復プロセスが完了した。裂け目は完全に閉じ、街は静寂に包まれた。


だが、勝利の代償は大きかった。


ソフィアはクリスタルの中で、眠り続けている。マルコはその前に跪き、泣いていた。エリアスは疲れ果て、その場に崩れ落ちた。リリアンが彼を支える。


「ソフィアは…死んだのか?」


エリアスは震える声で尋ねた。


「違う」


カイが近づき、クリスタルを調べた。


「彼女は『停滞状態』にある。意識はあるが、動けない。生きた装置としての役割を果たしている」


「戻せるか?」


カイは沈黙した。その沈黙が、答えだった。


オルタスがため息をついた。


「八重奏は完成したが、一人を失った。これでは完全ではない」


「違う」


突然、声がした。


全員が振り返ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。

街が修復されつつあった。消えた建物が戻り、透明になった人々が元の姿を取り戻している。ソフィアの犠牲が、次元の修復エネルギーを安定させ、街全体を回復させていた。


そして、クリスタルの中のソフィアが、微かに笑っているように見えた。


「彼女は…意識がある」


リリアンがスキャン結果を見て言った。


「そして、彼女を通じて、八重奏はまだ機能している。彼女は核となったのだ」


マルコはクリスタルに手を当てた。


「ソフィア…目を覚ましてくれ。約束しただろう?もう離さないって」


クリスタルが微かに光った。答えのように。


カイは周囲を見渡した。


「戦いは終わったが、戦争は続く。虚無の使徒たちの本拠地はまだある。他の世界も攻撃を受けている」


エリアスは立ち上がった。彼の目には、新たな決意が宿っていた。


「ならば、他の共鳴体を探そう。完全な八重奏で、全てを終わらせに」


彼はリリアン、マルコ、オルタス、カイを見た。


「ソフィアが犠牲になったからには、その犠牲を無駄にしない。全ての世界を守る」


遠くで、サイレンが鳴り止んだ。夜明けの光が、傷ついた街を照らし始める。


八重奏の最初の戦いは終わった。だが、これは始まりに過ぎなかった。

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