EP.005「裂け目の向こう側」
エクリプス・シティ中心部は、地獄絵図と化していた。
カイの装置による瞬間転移で到着した五人を待ち受けていたのは、秩序の完全な崩壊だった。巨大な次元の裂け目は空を垂直に引き裂き、その幅は既に100メートルを超えていた。裂け目の縁では、現実が溶けるようにゆがみ、建物の一部が透明になったり、別の材質に変化したりしている。
最も恐ろしいのは、裂け目から滝のように流れ落ちる『影』だった。
虚無の使徒たち——その名の通り、人間の形をしているが中身は空虚な存在。輪郭がぼやけ、所々が欠落し、光を吸収するかのように周囲を暗くする。彼らは無言で街を歩き、触れたものを "存在しないもの" へと変えていく。道路が消え、建物の一部が透明になり、逃げ遅れた人々がかすかな光の粒子に分解されていく。
「全員、市民の避難を支援せよ!」
マルコは警備隊の無線で指令を飛ばした。
「使徒たちには直接接触するな!距離を保て!」
リリアンは携帯スキャナーを構え、データを取っていた。
「彼らは反物質的な特性を持っている!通常の物質と接触すると、双方が消滅する!」
「止める方法は?」
エリアスが叫んだ。目の前で、一人の女性が使徒に触れられ、ゆっくりと透明になっていく。
「共鳴だ!」
カイが答えた。
「私たちの次元共鳴が、彼らの『無』の周波数を打ち消せる!」
ソフィアは震えていた。彼女の目には、使徒たちの深い悲しみが見えていた。
「彼ら…苦しんでいる。存在すること自体が苦痛なんだ」
「同情している場合じゃない!」
マルコは妹の腕を掴んだ。
「まずはあの裂け目を閉じるんだ!源を絶たない限り、無限に湧いてくる!」
カイは五人を集め、急ぎ計画を立てた。
「リリアンと私は裂け目の周波数を分析する。エリアスとソフィアは共鳴で使徒たちを食い止める。マルコは市民の避難を指揮してくれ」
「了解」
マルコはうなずき、警備隊員たちの元へ走っていった。
エリアスはソフィアを見た。彼女はまだ震えていたが、目には決意が光っていた。
「どうやるの?」
エリアスが尋ねた。
「私の感情が共鳴を増幅する」
ソフィアは言った。
「あなたが安定した周波数を見つけて、私がそれを強くする」
二人は手を繋いだ。エリアスは目を閉じ、頭の中の鈴の音に集中した。無秩序な騒音の中から、使徒たちの『無』の周波数を探す——深く低い、全てを否定するような唸りだ。
「見つけた」
エリアスはソフィアにその周波数を感じさせた。
ソフィアは深く息を吸い込んだ。彼女の内側から、温かい光が溢れ出た——希望の光だ。一年間の孤独と後悔の中で、それでも失わなかった小さな希望の炎が、今、彼女の共鳴を燃料に燃え上がる。
二人の共鳴が合わさり、金色と青白色が混ざり合った光の波が広がった。光は使徒たちに届き、彼らの『無』の波動を中和していく。
効果は目に見えた。光に触れた使徒たちの動きが鈍り、輪郭が少しだけはっきりし始めた。中には、一瞬だけ人間らしい表情を浮かべる者もいた——苦痛から解放された安堵の表情だ。
「効いてる!」
エリアスは叫んだ。
しかし、裂け目からは次から次へと新しい使徒が流れ出てくる。二人の力だけでは、全てを食い止めるには不十分だった。
一方、カイとリリアンは裂け目の真下にいた。リリアンはスキャナーを最大出力に設定し、裂け目のエネルギー特性を分析している。
「これは自然発生の歪みじゃない」
リリアンの声に緊迫感が走った。
「人為的に開けられたものだ。しかも、高度な技術で」
「虚無の使徒たちの本拠地からか?」
カイは複雑な計算を頭の中でこなしていた。
「それ以上だ」
リリアンはスクリーンを見つめ、息をのんだ。
「この裂け目…反対側は固定されていない。接続先が次々と切り替わっている!」
カイの表情が変わった。
「まさか…彼らは全てのパラレルワールドを同時に攻撃しているのか?」
その仮説を証明するかのように、裂け目の向こう側の風景が突然変わった。荒廃した世界から、未来都市へ、古代の森へ——無数の世界の断片が、高速で切り替わり続ける。
そして、ある一つの風景が、少し長く映し出された。
それは美しい、しかしどこか哀愁漂う世界だった。青白い光に満ちた街並み、有機的な曲線を描く建築物、空には二つの月ならぬ三つの衛星がかかっている。しかし、その世界には誰もいない。完全に無人の世界だ。
「第0世界…」
カイの声が震えた。
「私の故郷が…」
その瞬間、エリアスは強烈な共鳴に襲われた。裂け目を通じて、第0世界の『記憶』が洪水のように彼に流れ込んできた。
♢―――♢―――♢―――♢―――♢―――♢―――♢―――♢
エリアスは自分の体がここにないことに気付いた。彼は "見ている" だけで、観客のように第0世界の過去を目撃している。
100年前の第0世界は、生命と光に満ちていた。カイが言ったように、全てのパラレルワールドの源となる世界。技術も魔法も、科学も芸術も、全てが完璧な調和の中で発展していた。
そして、彼は "あの日" を目撃する。
研究施設で、八人の科学者たちが円形に並んでいる。中央には巨大な装置——次元の橋を作る装置だ。彼らは他の世界とつながり、知識と資源を共有しようとしていた。
しかし、計算に誤差があった。装置が起動した瞬間、エネルギーが暴走する。八人のうち七人は即死。一人だけが生き残った——若き女性科学者、その名はエラ・プリム。
エラは装置を止めようとするが、代わりに起こってしまったのは「次元分裂」だった。第0世界の一部が剥がれ、独立した世界として飛び散っていく。最初は数個だったが、連鎖反応で無数のパラレルワールドが誕生する。
そして最後に残った第0世界の核は、エネルギーを失い、死の世界と化す。
エラは深い後悔に苛まれる。彼女の過失が、故郷を滅ぼし、無数の新世界に不安定な基盤を与えてしまった。彼女は研究を続け、過ちを正そうとするが——
「見たか?」
突然、声がした。エリアスは現実に引き戻され、目の前に誰かが立っているのに気付いた。
影の中から現れたのは、女性だった。年齢は30代前半、白い実験着を着て、長い金髪は後ろで乱雑に束ねられている。彼女の目には、100年分の悲しみと疲労が刻まれていた。
「あなたは…エラ・プリム」エリアスは直感でわかった。
女性——エラはかすかに微笑んだ。
「私の曾孫が、よくここまで成長した」
「曾孫?」
エリアスは理解できなかった。
「時空はねじれている、エリアス」
エラは近づいた。
「第0世界が消滅した時、私は時間の中に逃げた。様々な時代、様々な世界を渡り歩き、過ちを正す方法を探した。そして23年前、ある世界で私は子供を産んだ。その子の子孫が、君だ」
エリアスは頭が混乱した。彼は第0世界の血を引いている?それが彼が次元共鳴体たる理由か?
「なぜ今現れた?」
エリアスは問い詰めた。
「なぜこの惨事を止めない?」
「止められない」
エラの声には深い絶望がにじんでいた。
「私が起こした次元分裂は、修正不可能な欠陥を持っている。全てのパラレルワールドは、いずれ崩壊する運命にある」
彼女は裂け目の方を見た。
「虚無の使徒たちは正しい。存在すること自体が間違いなのだ。私が生み出したこれらの世界は、本来存在すべきではなかった」
「違う!」
エリアスは叫んだ。
「僕の世界だって、この世界だって、そこに生きる人々の想いや希望は本物だ!たとえ偶然生まれた世界でも、そこで育まれる命に価値がないなんて誰が決められる!」
エラは驚いたようにエリアスを見つめた。彼女の目に、長い間消えていた感情のきらめきが戻ってきた。
「君は…彼らと違う」
「彼ら?」
「私の『他の』子孫たちだ」
エラはうなずいた。
「時空を渡る中で、私は複数の子供を産んだ。その子孫たちの一部は、私の罪と悲しみを継承し、虚無の使徒となった。世界の消滅を望む者たちだ」
エリアスは理解した。虚無の使徒たちは、エラの血を引く者たち——彼と同じ起源を持っているのだ。
「でも君は違う」
エラは続けた。
「君は希望を選んだ。たとえ私の過ちの結果として生まれた世界でも、守る価値があると信じている」
その時、裂け目が再び大きく広がった。今度は、一人の人間がゆっくりと降りてくる。装甲服を着た大柄な男で、顔には深い傷跡がある。
「マルコの…隊長?」
エリアスは驚いた。しかし、その男はマルコの知る隊長とは違った。目に光がなく、深い虚無をたたえている。
「一つになった」
男の声は響かなかった。
「遂に、始祖と最後の希望が揃った」
エラはエリアスの前に立ちはだかった。
「アザゼル…私の最初の子よ。まだやめないのか」
「やめる?」
男——アザゼルは歪んだ笑みを浮かべた。
「母よ、あなたこそが始めたことだ。私たちの罪、私たちの存在の重みから解放される時が来た」
彼は手を上げた。裂け目から、無数の使徒たちが一斉に現実世界に流れ込んできた。
「全てを終わらせよう。全ての世界を『無』に還すのだ」
エリアスはエラを見た。彼女は震えていたが、決意に満ちていた。
「エリアス、私の過ちを正してほしい」
エラは小声で言った。
「君にはできる。君は『調和の共鳴体』だ。分裂したものを一つに戻す力がある」
「どうやって?」
「八重奏だ」
エラはうなずいた。
「八人の共鳴体が揃い、私が残した装置の原型を使って、逆のプロセスを起こす。分裂を統合に、破壊を修復に」
しかし、その前にアザゼルを止めなければならない。使徒たちの大群が、街を飲み込もうとしていた。
その時、他の場所からも光が現れた。リリアンとカイが駆け寄ってくる。ソフィアとマルコも合流した。五人が再び集結する。
「エリアス、あの女性は?」
リリアンが警戒しながら尋ねた。
「エラ・プリム。全ての始まりだ」
エリアスは短く説明した。
「そして、彼女の息子が敵のリーダーだ」
カイはエラを見て、驚きの表情を浮かべた。
「あなたが…伝説の始祖か」
「時間はない」
エラは言った。
「アザゼルを止めるには、君たち五人の力では不十分だ。完全な八重奏が必要だ」
「残り三人は?」
マルコが叫んだ。
「今ここにいないじゃないか!」
エラは微笑んだ。
「もう一人は、ずっと君たちと一緒だ」
彼女が手を上げると、地面から光が湧き上がった。光は形を作り、一人の老人の姿になった——プロフェッサー・オルタスだ。
「先生!」
リリアンが驚いた。
「ごめんなさい、リリアン」
オルタスは申し訳なさそうに言った。
「私は記憶の共鳴体として、真実を隠していた。エラさんの計画の一部だったんだ」
「では七人」
カイが数えた。
「まだ一人足りない」
エラはエリアスを見つめた。
「最後の一人は、君の中にいる」
「え?」
「分裂した時、私の魂の一部が欠けた」
エラは説明した。
「それは時空を彷徨い、様々な形で転生した。君の魂の奥に、その欠片が眠っている。君が完全な調和の共鳴体になれる理由だ」
エリアスは自分の胸に手を当てた。彼の中に、別の誰かがいる?
「今、呼び起こしてほしい」
エラは懇願するように言った。
「私の最後の欠片を。そして、八重奏を完成させて」
アザゼルが近づいてくる。使徒たちの大群が、わずか100メートル先まで迫っている。
エリアスは目を閉じた。魂の奥深くに潜む、もう一つの自分を探す——
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