EP.004「多次元の使者」

手と手が触れ合った瞬間、光はソフィアの内側から溢れ出した。


それは暴力的な閃光ではなく、深い湖底から湧き上がる柔らかな光だった。青白い光の波紋がソフィアを中心に広がり、歪んだ空間を一つずつ撫でていくように通過した。エリアスは目を閉じ、全ての感覚を研ぎ澄ませた。


頭の中の鐘の音——無秩序に鳴り響いていた複数の旋律が、次第に調和し始めた。ソフィアの共鳴が、乱れた周波数を整えていく。高い音は少し低く、低すぎる音は適正な高さに、速すぎるリズムは緩やかに——


「すごい…」


マルコが呟いた。


彼の目の前で、パッチワークのように混在していた風景が、次第に一つの世界へと収束し始めていた。青い砂漠が消え、逆さまの岩が地面に戻り、降っているのに濡れない雨が止んだ。代わりに現れたのは、ソフィアが一年間暮らしていた荒廃した世界の風景——しかし、それは以前より "安定" しているように見えた。


影のような存在たちも変化した。輪郭がはっきりし、表情に苦痛の代わりに安堵が見え始めた。彼らはソフィアに向かって一礼するようにうなずき、次第に透明になっていった。最後の一人が消えるとき、かすかに「ありがとう」という声が風に乗って聞こえたような気がした。


光の波紋が広がるにつれ、歪みの領域は縮小していった。半径50メートルあった異常領域は、30メートル、20メートル、10メートル——そしてついに、ソフィアを中心とした5メートルほどの小さな円だけになった。


ソフィアが深く息を吐き、目を開けた。彼女の目には一年ぶりに焦点が合い、澄んだ青色が戻っていた。


「お兄ちゃん…」


「ソフィア!」


マルコは光の輪が消えるのを待たずに妹に駆け寄り、きつく抱きしめた。ソフィアも泣きながら兄にしがみついた。


「ごめんね、ごめんね…ずっと一人で怖かった」


「もう大丈夫だ。もう離さない」


エリアスはほっと息をつき、その場にしゃがみ込んだ。共鳴を使いすぎたのか、頭が割れるように痛んだ。だが同時に、不思議な達成感もあった。彼の能力が、実際に誰かを救うのに役立ったのだ。


「エリアス、聞こえるか?」


通信機からリリアンの声が聞こえた。今回は明瞭だった。


「歪みが収束した!外部から確認できる。君たちは無事か?」


「無事だ」エリアスは答えた。「ソフィアも保護した。ただ…ちょっと疲れた」


「すぐに救出隊を向かわせる。その場で待機を」


数分後、警備隊の隊員たちが防護服を着て領域内に入ってきた。リリアンも同行していた。彼女はまずソフィアの状態をスキャンし、驚いた表情を浮かべた。


「信じられない…彼女の生体信号が完全に安定している。歪みのアンカーとしての特性も消えた」


「アンカー?」


マルコが尋ねた。


「彼女が歪みの中心に固定され、領域を維持していた」


リリアンは説明した。


「しかし今は、普通の転移者と同様のシグネチャーになっている。エリアス、君が何をした?」


エリアスは立ち上がり、頭を押さえながら答えた。


「彼女の感情と共鳴した。彼女が感じていた後悔と罪悪感が、歪みを増幅させていた。それを解放することで、領域が安定した」


「感情が次元現象に影響を与える…」


リリアンは考え込んだ。


「理論的には可能性があるが、実際に観測されたのは初めてだ」


その時、ソフィアが弱々しく口を開いた。


「あの…私、何か聞こえる」


全員が彼女を見た。


「何が聞こえるの?」


マルコが心配そうに尋ねた。


「遠くで…誰かが話している。たくさんの声が重なって」


ソフィアは耳を澄ませた。


「『よくやった』、『ついに見つけた』、『計画は順調』って…」


エリアスも集中してみた。確かに、かすかに声が聞こえる——しかしソフィアが聞いているものとは違うようだった。より明確で、一人の人物の声だ。


「『次元の八重奏が集い始めた。最初の三つが揃った』」


エリアスは思わずその言葉を口にした。リリアンとマルコが彼を見つめる。


「今、何て言った?」


リリアンの声が鋭くなった。


「わからない…誰かの声が頭に浮かんだ」


エリアスは混乱していた。


「『次元の八重奏』…?」


突然、収束したはずの歪み領域の中心から、新たな光が現れた。しかし今回は青白い光ではなく、黄金色の、温もりを感じる光だった。光は形を作り始め——人の形に。


「全員、下がれ!」


マルコは武器を構え、妹とエリアスの前に立った。


しかし光の中から聞こえてきた声は、脅威的というより、むしろ穏やかだった。


「恐れることはない。私は敵ではない」


光が収束し、一人の男性が現れた。30代前半くらい、シンプルだが洗練された服装。顔は穏やかで、目には深い知性と、どこか哀愁が漂っていた。彼の周りには、微かに光る粒子が漂っている——次元エネルギーに満ちている証拠だ。


「あなたは?」


リリアンが警戒しながら尋ねた。


「私はカイ・フェニックス。多次元を渡り歩く旅人だ」


男性は礼儀正しく一礼した。


「そして、君たち三人を長い間探していた」


「三人?」


マルコの視線が鋭くなった。


「エリアス・ソーン、ソフィア・ヴァレンティ、そして…」


カイはリリアンを見た。


「リリアン・クロウ博士。君たちは『次元の八重奏』の最初の三人だ」


エリアスは先ほど頭に浮かんだ言葉を思い出した。


「次元の八重奏…それが何なのか説明してほしい」


カイは周囲を見回した。警備隊員たちが不安そうにこちらを見ている。


「ここでの話は不便だ。私の住まいへ来ないか?安全で、話しやすい場所だ」


「なぜ私たちを信用しなければならない?」


マルコはまだ武器を下ろさなかった。


「では、信用を得るための情報を一つ」


カイはソフィアを見た。


「ソフィア・ヴァレンティ。君の父親、エリック・ヴァレンティ博士は、単なる発明家ではなかった。彼は『第0世界』からの転移者で、次元の橋を作る研究をしていた。彼の装置が暴走したのは偶然ではない。妨害工作が入ったのだ」


ソフィアの顔色が変わった。


「パパが…転移者?妨害工作?」


「詳細は私の住まいで話そう」


カイはポケットから小さな装置を取り出した。


「安心してほしい。君たちを害するつもりはない。むしろ、君たちのような『共鳴体』こそが、迫り来る次元崩壊を止める唯一の希望なのだ」


リリアンはエリアスと視線を交わした。彼女の研究者としての好奇心が、警戒心と戦っているのがわかった。


「どう思う?」


リリアンが小声で尋ねた。


エリアスはカイをじっと見つめた。この男の周波数は、今まで感じたどの共鳴とも違った。複数の世界の音が完璧に調和している——まるで、彼自身が小さな多元宇宙のようだ。


「彼は本物だ」


エリアスは言った。


「少なくとも、彼が言う『多次元の旅人』であることは本当だ。彼の共鳴が…あまりにも多層的すぎる」


マルコは妹を見た。ソフィアはうなずいた。


「行きましょう、お兄ちゃん。パパのことをもっと知りたい」


マルコは深く息を吸い、武器を収めた。


「わかった。だが、一つ条件だ。場所は私たちが選ぶ。中立地帯で」


カイは微笑んだ。


「合理的な提案だ。では、エクリプス・シティの『中立区画』にあるこの場所はどうか?」


彼はタブレットのようなものを取り出し、地図を表示した。それは旧市街の外れにある、廃墟と化した研究施設だった。


「『忘却の研究所』…」


リリアンが呟いた。


「あそこは20年前に封鎖されたはずだ」


「表向きはそうだ」


カイは意味ありげに笑った。


「だが実際には、私のような者が使う安全な場所の一つになっている。さあ、行く準備をしよう」


カイが再び装置を操作すると、黄金色の光が四人を包み始めた。エリアスはまたあの "転移" の感覚を覚えたが、今回はもっと制御され、穏やかだった。


光が消える直前、エリアスはふと外を見た。警備隊員たちが驚いてこちらを見ている。リリアンの研究室に戻りたい、普通の生活に戻りたい——そんな思いがよぎった。


でも、彼にはもう ""はなかった。転移者、次元共鳴体、そして今や『次元の八重奏』の一人。


光が完全に彼らを包み込んだとき、カイの声が最後に聞こえた。


「ようこそ、真実の世界へ」


♢―――♢―――♢―――♢―――♢―――♢―――♢―――♢


光が消え、四人が目を開けると、そこは廃墟とは程遠い、驚くほど整備された空間だった。


『忘却の研究所』の内部は、外観からは想像できないほど近代的だった。白を基調とした広々としたラボ、壁一面のディスプレイ、中央には巨大な次元モデルがホログラムで浮かんでいる。しかし最も驚くべきは、窓の外の景色だ。

窓というより、巨大なスクリーンのように、様々な世界の風景が映し出されていた。ある画面にはエクリプス・シティの街並み、別の画面にはエリアスの世界の東京の夜景、さらに別の画面にはソフィアが見ていた荒廃した世界——


「ここは私の観測拠点の一つだ」


カイが説明した。


「12の主要パラレルワールドを同時監視している」


「12も?」


リリアンの目が輝いた。


「そんなに多くの世界が確認されているのか?」


「確認されているのは37だが、安定して観測できるのは12だ」


カイは椅子を勧めた。


「さあ、座ってくれ。話すことは多い」


四人が座ると、カイは真剣な表情になった。


「まず、現在の状況から説明しよう。君たちが気付いている通り、次元の壁が弱体化している。転移現象が増加し、歪みが発生している」


彼はホログラムを操作し、無数の泡のような世界を示した。そのいくつかが、ひどく歪み、他の世界と融合し始めている。


「この現象は『次元崩壊』と呼ばれ、進行するとすべての世界が一つに混ざり合い、存在そのものが消滅する」


「原因は?」リリアンが尋ねた。


「根本原因は『第0世界』の崩壊だ」


カイの声が重くなった。


「全てのパラレルワールドの源となった世界が、100年前に消滅した。その衝撃波が、次元の構造をゆるやかに破壊し続けている」


ソフィアが息をのんだ。


「それで…パパの装置が?」


「エリック博士は第0世界からの最後の転移者の一人だ。彼は故郷を救う方法を探し、次元の橋を作ろうとした」


カイは哀れむようにうなずいた。


「しかし、『虚無の使徒』と呼ばれる者たちが彼の研究を妨害した。彼らは全ての世界の消滅を望んでいる」


「なぜそんなことを?」


エリアスは理解できなかった。


「彼らは、存在することの苦しみから解放されるためだと信じている」


カイはため息をついた。


「そして今、彼らは次元崩壊を加速させるために動き始めた。君たちのような『共鳴体』を狙っている」


「私たちがなぜ狙われる?」マルコが詰め寄った。


「なぜなら、君たちだけが次元崩壊を止められるからだ」


カイは四人を順番に見た。


「『次元の八重奏』——八人の強力な共鳴体が揃い、調和した共鳴を起こせば、次元の構造を修復できる。少なくとも、理論上は」


カイはホログラムを変え、八つの光点が円を描く図を表示した。


「エリアスは受動的共鳴体——異世界の情報を受信できる。ソフィアは感情的共鳴体——感情が次元現象を増幅する。リリアンは分析的共鳴体——次元パターンを理解し、制御できる」


彼は一呼吸置いた。


「そして私——カイ・フェニックスは、旅する共鳴体だ。世界を渡り歩き、他の共鳴体を探すために」


エリアスは自分の手のひらを見つめた。彼にはそんな力があるのか?世界を救うほどの?


「残り四人は?」リリアンが記録を取りながら尋ねた。


「一人はすでに見つかっている。プロフェッサー・オルタスだ」


リリアンは目を見開いた。


「先生が…?」


「彼は記憶の共鳴体だ。過去の世界の知識を保持している」


カイはうなずいた。


「残り三人はまだ不明だが、探している。時間がなくなっている。虚無の使徒たちも探しているのだから」


突然、警報が鳴り響いた。ホログラムの一つが赤く点滅し始めた。


「なんです?」


マルコが警戒して立ち上がった。


カイの表情が険しくなった。


「エクリプス・シティで新たな歪みが発生した。しかも、今回は規模が…」


画面に映し出されたのは、市の中心部だった。巨大な次元の裂け目が空を引き裂き、その向こうから——何かが現れようとしていた。


「これは…侵攻だ」


カイは低く言った。


「虚無の使徒たちが、本格的な攻撃を開始した」


エリアスはスクリーンを見つめ、胸が締め付けられるのを感じた。裂け目の向こうに見えるのは、影のような軍勢——無数の、世界を消滅させようとする者たちだ。


「行かなきゃ」エリアスは言った。「あそこにはまだたくさんの人がいる」


カイは四人を見つめた。


「覚悟はできているか?これは戦いの始まりに過ぎない。しかも、君たちはまだ完全な八重奏ではない」


マルコは武器をチェックした。


「覚悟なんて、とっくにできている。妹を守るためにも、この街を守るためにも戦う」


ソフィアは兄の横に立った。


「私も。私が引き起こしたことの償いをしたい」


リリアンは研究資料をまとめ始めた。


「科学的に記録する必要がある。これほどの次元現象は二度と観測できないかもしれない」


エリアスは深く息を吸った。帰りたい、普通に戻りたい——そんな思いはまだ消えていない。でも今、彼には守るべき人々がいた。リリアン、マルコ、ソフィア、そしてこの世界の無辜の人々。


「行こう」


エリアスは言った。


「僕の力が役に立つなら、使う」


カイは満足そうに微笑んだ。


「では、『次元の八重奏』の最初の戦いだ。君たちの力を、調和させてみよう」


四人は研究所を出て、新たな光の中へと歩み入った。背後では、12の世界の風景がスクリーンに映し出され、その全てが今、危機に瀕していた。

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