EP.002「次元共鳴者の目覚め」
リリアンの研究室は、エリアスの想像をはるかに超えていた。
エクリプス・シティの地下深く、静謐な光に包まれた巨大な空間。壁一面に埋め込まれたディスプレイには、無数の数式と次元モデルが流れている。中央には、複雑に絡み合った光の糸が三次元ホログラムとして浮かび、ゆっくりと回転していた——パラレルワールドのネットワーク図だと、後でエリアスは知ることになる。
「ここならしばらく安全よ」
リリアンは白いコートを脱ぎ、ハンガーにかけた。その下はシンプルな実験着だったが、彼女の動きには研究者らしい効率的なエレガンスがあった。
エリアスはまだ震えが止まらなかった。金属の床の冷たさ、二つの月の光、追ってくる装甲服の男たち——全てが現実だと認めるには、あまりに非現実的だった。
「水をどうぞ」
リリアンが差し出したグラスを、エリアスは両手で受け取った。水は冷たく、普通の水だった。少なくとも、この世界の水が彼の体に合わないということはなさそうだ。
「説明してほしい」エリアスは声の震えを抑えようとした。「僕はいったいどこに?どうして?」
リリアンは机の端に腰かけ、深いため息をついた。
「ここはネオ・アトランティカ連邦、エクリプス・シティ。君が『日本』と呼ぶ場所からは——おそらく多次元的に離れたパラレルワールドだ」
「パラレル…ワールド?」
「並行世界、多元宇宙——呼び方はいろいろあるが、要するに私たちの世界と似て非なる世界だ」
リリアンはホログラムを操作した。
「約80年前、私たちの世界で『次元共鳴理論』が確立された。無数の世界が層をなして存在し、稀にその境界が薄くなることがあると」
画面には、幾重にも重なる泡のような構造が表示された。そのうちの二つが、わずかに触れ合っている。
「通常、転移現象は極めて稀だ。過去50年で確認されたのは11例のみ」リリアンの声が沈んだ。「しかし、ここ半年で7例が報告されている。増加率が異常だ」
エリアスはグラスを置き、自分の手のひらを見つめた。
「僕は…8例目?」
「12例目だ」
リリアンは首を振った。
「君の前に5例が今月だけで報告されている。それも全て、記録にない新しい世界からだ」
彼女はタブレットを操作し、エリアスの前に映像を表示した。様々な場所で、突然光に包まれる人々。驚愕の表情を浮かべる。中には、古代のような服装をした者もいれば、明らかにエリアスの世界より進んだ技術を持っているような服装の者もいた。
「次元の壁が弱体化している」リリアンの声には緊迫感があった。「原因は不明だが、このままでは大規模な次元崩壊が起こる可能性がある」
「次元崩壊…?」
「世界同士が混ざり合い、存在そのものが不安定になる現象だ」リリアンはホログラムを拡大した。「物理法則が矛盾し、時間の流れが乱れ、最終的には——」
彼女の説明は、突然の警報で中断された。
「警告:異常な次元共鳴を検知。発生源:研究室内部」
リリアンは驚いてエリアスを見た。
「まさか…」
エリアスは何かがおかしいと感じ始めていた。頭の奥で、かすかな鈴の音のようなものが鳴っている。視界の端が、ゆらゆらと揺れている。まるで、目の前の世界が透明なヴェールの向こうにあるような——
「エリアス、君は今何を感じている?」リリアンが近づき、端末を構えた。
「頭が…変だ。鈴の音がする。それに…」
エリアスは目を閉じた。すると、研究室の風景が変わった。
リリアンはそこにいたが、服が違う——もっと正式なスーツを着て、髪は短く刈り込まれている。年も少し上に見える。机の上の資料は同じだが、文字が——違う言語で書かれているのに、なぜか読める。
「プロジェクト・ネクサスの第三段階は…」
エリアスの口から、知らない言葉が洩れた。
リリアンは驚いて飛び退いた。
「今、何て言った?」
「え?何も…」
「『プロジェクト・ネクサスの第三段階』って言ったわ」
リリアンの目が輝いた。
「それは私たちの世界の最高機密プロジェクトの名前よ。どうして知っているの?」
「知らない、ただ…頭に浮かんだだけ」
リリアンは急いで機器を準備し始めた。小さなヘッドセットのようなものをエリアスの頭に装着する。
「これを着けて。脳波と次元共鳴を計測する」
装置が作動すると、中央のホログラムが激しく変化した。通常は安定した波形を示す部分が、乱れたパターンを描き始める。そして、エリアスの脳波に同期するかのように、別の波形が重なり始めた——明らかに異なる周波数の、未知のパターン。
「信じられない…」リリアンは息をのんだ。「君は『次元共鳴体』だ」
「それって?」
「稀なる存在で、無意識に複数のパラレルワールドの情報にアクセスできる」
リリアンは計測データを熱心に見つめた。
「理論上は存在が予測されていたが、確認されたのは初めてだ。君の脳が、異なる世界の『周波数』を受信している」
エリアスは頭の装置を取り外そうとしたが、リリアンが止めた。
「待って。今、何か見えていない?感じていない?」
目を閉じると、また映像が浮かんだ。
今回は研究室ではなく、荒れ果てた廃墟だ。崩れた建物、錆びた機械、灰色の空。そして一人の少年が、瓦礫の山の上に座り、何かを抱きしめている。少年は泣いていないが、その目には深い絶望があった。
「少年が…いる。廃墟で」
「詳細は?」
「10歳くらい?茶色の髪、青い服。何かを抱えている——写真?それとも…」
エリアスは突然、胸が締め付けられるような痛みを感じた。悲しみ——自分のものではない、誰かの深い悲しみが、彼の中に流れ込んできた。
「彼は…全てを失った」エリアスは息苦しくなった。「彼のせいで…世界が…」
「エリアス!」
リリアンの声で現実に引き戻された。エリアスは冷や汗をかき、激しく息をしていた。
「あの少年…誰だ?」
「わからない」リリアンはデータを記録しながら答えた。「でも、君の共鳴が他の転移者より強い理由がわかった。君は単なる転移者ではなく、アクティブな共鳴体だ。おそらく——」
室外から、ドアを叩く音がした。
リリアンは警戒してドアのモニターを見た。映し出されたのは、銀色の装甲服ではなく、少しくたびれた革ジャンの男だった。たくましい体躯、短く刈り込まれた黒髪、鋭い目——元軍人か何かだとすぐにわかる風貌だ。
「リリアン博士、開けてくれ。緊急事態だ」
リリアンは一瞬ためらい、それからドアを開けた。男が入ってくると、まずエリアスを見た。鋭い視線が彼を一瞬で評価する。
「新しい転移者か」
「マルコ、今は——」
「街の東地区で新たな次元の歪みが発生した」
マルコはリリアンの言葉を遮った。
「しかも、今回は規模が違う。半径50メートルが完全に別の風景に置き換わっている」
「被害者は?」
「10人以上が巻き込まれた。その中に——」
マルコの声がわずかに震えた。
「その中に、一年前に失踪した転移者と同じエネルギーシグネチャーを検知した」
リリアンの顔色が変わった。
「あなたの妹が…?」
マルコはうなずき、拳を握りしめた。
「ソフィアの信号だ。彼女はまだどこかで生きている」
そして彼はエリアスを見た。
「博士、この転移者を連れて行け。彼のその『能力』が、歪みの中をナビゲートするのに役立つかもしれない」
エリアスは二人を見つめ返した。自分の世界への帰還の可能性、次元崩壊の危機、そして今、行方不明の少女の救出。
全てが急ぎすぎていた。でも、彼には選択の余地はなさそうだった。
「わかった」
エリアスは立ち上がった。
「でも一つ条件だ。終わったら、僕を元の世界に戻す方法を教えてくれ」
リリアンとマルコは顔を見合わせた。
「約束する」
リリアンが言った。
「ただし、まずはこの危機を乗り越えなければ」
三人が研究室を出るとき、街のサイレンがまた鳴り始めた。それは、次元そのものが悲鳴を上げているように聞こえた。
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