EP.001「見知らぬ空の下で」

エリアス・ソーンは、自分の部屋の天井のひび割れを数えていた。


三本目のひびが、窓から差し込む夕日のオレンジ色に染まり始めた頃、彼は今日も特に何も起こらない一日が終わるのだと思った。大学の講義、コンビニでのアルバイト、自室でのネットサーフィン——そんな日常が、この先何年も続くのだろう。

彼がため息をつき、ベッドから起き上がろうとした瞬間、部屋の空気が変わった。

最初は気のせいかと思った。夏の夕方の湿った空気が、突然カラッと乾いたように感じられた。次に、耳鳴りのような高周波の音が、頭蓋骨の内側から響いてきた。


「な…っ?」


窓の外を見やる。いつもの住宅街の風景が、ゆがんでいる。隣家の屋根が波打ち、道路のアスファルトがゆっくりと渦を巻いている。まるで水の中から世界を見ているような、あのゆがみ方。


エリアスは慌てて目をこすった。見間違いに違いない。疲れているんだ。でも、目を開けてもゆがみは治まらない。むしろ、強くなっている。


そして、光が来た。


窓からではない。部屋の中心から、何もない空間から、柔らかな青白い光が滲み出てきた。それは水の中に落としたインクのように広がり、瞬く間に部屋全体を包み込んだ。


「やめて…っ!」


叫び声は、光に吸い込まれた。


エリアスは体が引き伸ばされるような感覚に襲われた。細胞ひとつひとつがバラバラになり、また組み立てられる——そんな非現実的な感覚。時間も空間も意味を失い、全てが混濁する白色の渦の中に、彼は投げ出された。


意識が戻ったとき、まず感じたのは匂いだった。


日本の自室にあったほこりっぽい匂いでも、外から入ってくる夕飯の匂いでもない。金属と電気と、どこか化学的な清潔感のある匂い。それに、彼の知らない花の、甘すぎない芳香が混ざっている。次に音が聞こえた。遠くで響く、低い唸りのような音。風でも機械でもない、彼の経験にない音。それと、かすかに聞こえる人間の話し声——でも、言葉がわからない。言語そのものが違う。


そして、痛み。全身が打ち身だらけのような鈍痛。エリアスはゆっくりと目を開けた。


天井はなかった。


代わりにあったのは、巨大なガラスドームの向こうに広がる、二つの月がかかる夜空だった。一つは青白く、もう一つは薄い紫がかった光を放っている。星の配列も、彼が知っているどの星座とも違う。


「あ…ああ…」


声が出ない。恐怖が喉を締め付ける。


エリアスは必死で体を起こそうとした。身の下は冷たい金属の床。彼がいたのは、円形の広場のような場所の中心だった。周囲には見たこともない建築物が立ち並んでいる——有機的な曲線を描くビル、空中に浮かぶ歩道、ビルの壁面を流れる光の文字。


街灯はなく、建物自体が淡い光を放っている。空中を、音もなく滑るように飛ぶ車両が何台か通り過ぎる。窓もなく、ただ流線形の金属の塊が、決められた経路を移動している。


「ここは…どこ…?」


ようやく絞り出した声は、広場にこだました。

すると、彼の声に反応したように、近くの壁面が光り始めた。彼の言葉が、見知らぬ文字列に変換されて表示される。そして、その下に、いくつかのアイコンが現れた。エリアスはよろめきながら立ち上がった。服は変わっていない——ジーンズにTシャツ。でも、持っていたスマートフォンは消えている。代わりに、ポケットには見知らぬ金属の小片が入っていた。温もりを感じる、淡い光を放つ小片。


「異物を検知。生命反応、人間型。転移現象の可能性あり」


突然、機械的な女性の声が頭上から聞こえた。エリアスは仰ぎ見た。小さな球体が、無音で浮遊している。赤い光が一点、彼を捉えている。


「警告。未登録の転移は法律第304条により禁止されています。その場で待機してください。安全保障局員が向かっています」


「ちょ、待って——」


エリアスが叫んだとき、背後から新しい声が聞こえた。


「待て」


深みのある、落ち着いた女性の声だった。振り返ると、白いコートをはおった女性が立っていた。長い栗色の髪は後ろで束ねられ、鋭いながらも知性的な青い目が、エリアスをじっと見つめている。年齢は二十半ばだろう。彼女の手には、複雑なディスプレイが埋め込まれたタブレットのような端末があった。


「転移反応はあっちだと思ったが…こっちか」


女性は端末を見ながら、そう呟いた。そしてエリアスに近づき、言葉を続ける。


「わかるか?私の言葉が」


エリアスはうなずいた。奇妙なことに、彼女の話す見知らぬ言語が、頭の中で自動的に日本語に変換されて理解できた。


「君は…誰?ここは?」


女性は一瞬目を細めた。


「まずはこちらから質問する。名前は?」


「エリアス…エリアス・ソーン」


「年齢?」


「23」


「転移前の所在地?世界名でいい」


エリアスは首をかしげた。


「世界名…?日本だよ、東京の…」


女性の表情がわずかに変わる。驚きと、何か深刻なものを感じ取ったような表情。


「『日本』…知らない世界名だ。発音記号は…J-A-P-A-Nか」


彼女は端末に素早く入力した。すると、画面が赤く点滅し始める。


「記録にない世界…まさか」


彼女が呟くより先に、遠くからサイレンのような音が聞こえてきた。複数の人影が、空中歩道を走って近づいてくる。


「時間がない」女性はエリアスの腕を掴んだ。「ついて来い。捕まったら、二度と元の世界には戻れなくなる」


「元の世界…?戻れるのか?」


エリアスの問いかけに、女性は一瞬ためらった。


「理論上は可能だ。だが今はそれどころではない。さあ、早く」


彼女に引っ張られて、エリアスは広場を離れた。後ろから「停止しろ!」という声が響く。振り返ると、銀色の装甲服を着た男たちが追ってくる。二人は曲がりくねった路地に入り、奇妙な形をした建物の陰に身を隠した。息を潜めながら、エリアスはようやく質問できた。


「君は…誰なんだ?」


女性は一呼吸置いて、答えた。


「リリアン・クロウ。次元物理学研究所の研究員だ」


そして、彼女はエリアスの目を真っ直ぐ見つめた。


「エリアス・ソーン。君が来たのは偶然ではない。そして恐らく——君の転移は、私たちの世界が直面している危機の、ほんの始まりに過ぎない」


遠くで、もう一つのサイレンが鳴り響いた。それは、この見知らぬ世界の夜に、不安なリズムを刻み始めるのだった。

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