第5話 俺は誰だ

 朝が来ても、起きる理由がなかった。


 目覚ましを止める必要もない。

 スケジュールは白紙。

 誰からも、何も求められていない。


 それが現実だと理解するまで、時間がかかった。


 ニュースはもう俺のことを報じない。

 話題は次の代表、次の成功例、次の不祥事。

 社会は、滞りなく前へ進んでいる。


 ——俺を置き去りにして。


 ある日、ふと思い出し衝動的に、絵美里の名前を検索した。

 理由はない。ただ、まだどこかで「繋がっている」と思いたかった。


 情報は、すぐに出た。


 異動。

 地方支社。

 だが、在籍期間は短い。


 その職場に居場所はなかったらしい。

 視線。噂。沈黙。

 どこへ行っても、彼女は“問題の残骸”だった。


 最終的に、彼女は会社を去った。

 故郷へ帰ったと、簡単な一文が添えられていた。


 俺には、何の連絡もなかった。


 責める気持ちは、不思議と湧かなかった。

 

 当然だ。

 彼女にとって、俺は守ってくれる存在ではなかった。

 最後の最後で、俺は彼女を切り捨てたからだ。


 いや——

 正確には、何もできなかった。


 それは、裏切りよりも残酷だ。


 彼女の人生が、俺と関わったせいで歪んだことは分かっている。

 だから謝る資格すら、もう俺にはない。


 社会から消え、

 家庭から消え、

 誰の記憶にも必要とされない。


 それが、今の俺だった。


 数週間後、美幸から連絡が来た。

 弁護士を通さない、直接の連絡。


 短い文面だった。

 「最後に、話しておきたいことがあります」


 指定された場所は、静かな喫茶店だった。

 かつて、三人で来たことがある店。


 美幸は、先に来ていた。

 変わらない姿。

 だが、もう“俺の知っている彼女”ではない。


 「元気?」

 形式的な問い。


 「……まあ」

 それ以上、言葉は続かなかった。


 沈黙のあと、美幸が口を開いた。


 「ルナは、元気よ」

 それは報告だった。

 共有ではない。


 「あなたのことは、話題にしていないわ」

 淡々と。

 事実として。


 俺の存在が、娘の世界から消えている。

 その確認だった。


 そして、美幸は言った。


 「あなたは自分が罰せられていると思っているの?」


 胸が、わずかに反応した。

 否定も肯定もできなかった。


 美幸は、首を横に振った。

 「違うの」

 「あなたは、罰を受けているんじゃない」


 一拍置いて、続ける。


 「元に戻っただけ」


 言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


 「立場があった。

  肩書があった。

  家庭があった。

  それが、あなた自身だと思っていたでしょう?」


 俺は、何も言えない。


 「でもね、それが全部なくなった今、残ったもの——それが本当のあなたよ」


 それは、断罪ではなかった。

 美幸の俺への評価だった。


 「何も残らなかった。それが、答えよ」


 逃げ道のない言葉だった。


 怒鳴られる方が、まだ楽だった。

 恨まれる方が、まだ存在を認められていた。


 だがこれは違う。


 存在そのものを否定されているのだ。


 「私は、あなたを壊したかったわけじゃない」

 「ただ、嘘の上にあったものを、全部、元に戻しただけ」


 立ち上がる美幸を、引き止めることはできなかった。

 引き止める理由も、資格もない。


 彼女は、振り返らなかった。


 店を出て、一人になった。

 街は、いつも通りだった。


 人が歩き、笑い、未来へ向かっている。

 その中で、俺だけが止まっている。


 いや——

 止まっているのではない。


 最初から、何者でもなかった。


 立場に守られていただけの、空っぽの人間。

 それが、剥き出しになっただけだ。


 名前を呼ばれることもない。

 役割を与えられることもない。

 誰かの人生に、影響を与えることもない。


 それが、完全な終わりだった。


 救いはない。

 再生もない。


 ただ、

 何者でもない自分が、

 何者でもないまま、生き続ける。


 それが——

 美幸が与えた、最後の罰だった。

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見えない罰 てつ @tone915

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