第4話 名前が消えた、その日
通達は、紙一枚だった。
簡潔で、感情の入り込む余地のない文面。
取締役会決議。
代表権の一時停止。
調査期間中の職務執行停止。
——一時停止。
その言葉に、俺は縋りついた。
永久ではない。解任でもない。
あくまで“調査のため”。
つまり、俺は、まだ終わっていない。
そう解釈することで、立場を守っていられた。
オフィスに向かうエレベーターの中、
社員証をポケットに入れていることを何度も確かめた。
それがある限り、俺はまだ社長だ。
受付で、足が止まった。
警備員が、こちらを見る。
その視線は、以前と違った。
敬意ではない。確認だ。
「山沢達也、さん」
一瞬の間のあと、名前で呼ばれた。
役職が、消えている。
「本日は、こちらへ」
案内されたのは、会議室だった。
俺の執務室ではない。
取締役たちは、すでに揃っていた。
全員が、俺を見ない。
正確には、俺の“立場”を見ていない。
議長が、淡々と告げた。
「あなたの代表権は今日限りです」
異議を唱える準備はしていた。
法的に。手続き上。
だが、それを口にする前に、理解してしまった。
——これは、確認作業だ。
もう、結論は出ている。
「社内外への影響を鑑みて、あなたの続投は不可能と判断しました」
続投。
その言葉が、ひどく遠い。
俺は、何かを言おうとして——
言葉が出なかった。
誰も、俺の反応を待っていない。
会議は、十分足らずで終わった。
その短さが、すべてを物語っていた。
廊下を歩く。
社員たちが、視線を逸らす。
同情でも、敵意でもない。
無関係なものを見る目。
それが、一番堪えた。
デスクの私物を箱に詰める。
写真立て。ペン。表彰状。
どれも、かつては“俺を証明するもの”だった。
今は、ただの荷物だ。
会社を出るとき、振り返らなかった。
振り返る資格が、もうないと感じたからだ。
その日の夕方、ニュースが出た。
「某IT企業、代表交代」
理由は曖昧にぼかされている。
だが、名前は出た。
元代表取締役・山沢達也。
“元”という文字が、すべてを終わらせていた。
スマートフォンが鳴った。
取引先からの連絡。
いや、正確には——連絡が“来なくなった”。
既読にならないメッセージ。
繋がらない番号。
社会は、冷たいほど合理的だ。
価値を失った人間に、用はない。
家は暗かった、灯りがついていなかった。
美幸とルナは、もう別の場所にいる。
テーブルの上に、封筒が一つ。
必要最低限の書類。
連絡は、弁護士を通して。
感情は、どこにもない。
椅子に座り、天井を見上げた。
ここは、俺の家だった。
俺が守るべき場所だった。
だが今は、空っぽだ。
俺は考えた。
——社長でなくなった俺に、何が残る?
答えは、すぐに出た。
何もない。
名前も。肩書も。家庭も。
社会的な役割も、信用も。
すべては、立場の上に成り立っていた。
その立場が消えた瞬間、
俺という人間も、一緒に消えた。
それが、終わりだった。
怒鳴られることも、責められることもない。
ただ、静かに——
社会から削除されただけ。
この先、どうなるかは分からない。
だが一つだけ、はっきりしている。
俺はもう、
誰かにとって“必要な存在”ではない。
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