第3話 守られない人間
会社は、通常通り動いていた。
数字は落ちていない。
売上も、株価も、表向きは安定している。
だが、俺の足元だけが、ゆっくりと崩れていく。
役員会で、初めて露骨な違和感を覚えた。
「この件は社長個人の判断ではなく、委員会を通すべきではありませんか?」
誰かがそう言った。
否定でも反論でもない。だが、明確な“ブレーキ”だった。
俺は社長だ。
最終決定権は俺にある。
そう思って口を開いたが、空気が動かない。
全員が、俺を見ていない。
正確には、“俺の言葉の後”を見ている。
——もう、俺は信用されていない。
その認識が、遅れてやってきた。
会議後、絵美里を呼んだ。
「最近、社内が妙だ。何か聞いていることはないか?」
彼女は一瞬だけ視線を伏せた。
それだけで、答えは出ていた。
「社長……」
声が、震えている。
俺は苛立った。
彼女は、俺の“味方”であるべき存在だったはずだ。
「何だ」
低く言う。
「私に異動の話が来ています」
「……異動?」
笑いそうになった。
秘書の異動など、俺が止められることじゃないか。
しかし、そう言おうとして、次の言葉が出なかった。
なぜなら、その話が俺を経由せずに進んでいると悟ったからだ。
「誰の判断だ」
「……取締役会を経て総務部長からです」
その瞬間、絵美里は“守られる側”ではなくなった。
そしてそれは、俺も同じだという証明だった。
「心配するな。俺が何とかする」
そう言ったが、声に力はなかった。
彼女は、俺を見なかった。
「……ありがとうございます」
形式的な礼に、感情はない。
——見捨てられる前触れは、いつも静かだ。
数日後、内部調査が正式に始まった。
名目はコンプライアンスの再確認。
だが、焦点は明確だった。
俺と、絵美里。
事実だけが、丁寧に積み上げられていく。
出張の同行履歴。
深夜の連絡記録。
会社経費と私的行動の境界線。
誰かが嘘を流したわけじゃない。
すべて、俺自身が残してきた痕跡だった。
家では、美幸が淡々と準備を進めていた。
弁護士。
別居。
財産分与。
相談ではない。報告だ。
「ルナの学校のこともあるから、時期は慎重に考えるわ」
そう言う彼女は、完璧な“母親”だった。
その中に、俺の居場所はない。
「俺に言うことはないのか」
思わず、そう口にした。
美幸は、少し考えるように間を置いた。
そして、首を横に振った。
「もう、何もないわ」
その否定は、完全だった。
怒りも、失望も、説明もない。
それはつまり——俺は、判断の対象ですらなくなったということだ。
会社でも、家庭でも、
俺は“処理される側”になっていた。
数日後、絵美里が退職届を出したと聞いた。
俺には、事後報告だった。
連絡を入れようとして、やめた。
何を言う?
「すまなかった」か?
「まだ何とかなる」か?
どちらも、嘘だった。
夜、書斎で一人、座っていた。
この部屋は、俺が選んだ。
この家も、会社も、人生も。
なのに、なぜだ。
なぜ、すべてが俺の手から滑り落ちていくのだ?
答えは、分かっている。
俺は、守られていた。
妻に。家庭に。立場に。
そして、それを当然だと思った。
——守られている人間は、
守られなくなった瞬間に、何も残らない。
その事実が、骨の奥まで染み込んでくる。
初めて、恐怖を感じた。
失うことへの恐怖ではない。
もう、失うものがないかもしれないという恐怖だ。
それでも、まだどこかで思っていた。人は甘いと言うだろうが。
「最悪でも、社長の座だけは——」
その甘さが、次に何を招くのか。
俺は、まだ理解していなかった。
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