第2話 沈黙

しばらくして家の中に、音がなくなった。


正確に言えば、生活音はある。

冷蔵庫の低い唸り、廊下を踏む足音、食器が触れ合うかすかな音。


だが、そこに“人の気配”がない。


ルナは、俺と目を合わせなくなった。

朝、ダイニングに降りてきても、俺の存在を避けるように席をずらす。

何か汚物でもみるような目で、雰囲気で。


以前なら何気なく話していた学校のことも、一切口にしない。


思春期だ。

そう自分に言い聞かせた。

父親を疎ましく思う年頃。珍しいことじゃない。俺は多くの社員を見てきた。

子どもの変化に過剰反応する親ほど、失敗する。


問題は——美幸だった。


彼女は、以前よりも穏やかだ。

声を荒げることもなく、表情も変わらない。

それが逆に、ひどく不安に感じた。


「今日、取引先と会合がある。帰り遅くなる」

そう言うと、

「わかりました」

それだけ。


責めない。問い詰めない。

裏切りを知った人間の反応として、あまりにも“正しい”態度だった。


——知っている?


その可能性が頭をよぎるたび、胸の奥に針が刺さる。

だが、確信はなかった。確信がない以上、俺は“何もしていない人間”でいられる。


**********************************


会社では、異変が起き始めていた。


会議での発言に、微妙な間が生まれる。

以前なら即座に賛同していた役員が、言葉を選ぶようになった。

数字・指数に問題はない。業績も好調だが、空気だけが変わっていく。


絵美里は、変わらなかった。

いつも通り、完璧な秘書。

だが、以前より距離を感じる。俺が近づけば、彼女は一瞬、硬くなる。


「何かあった?」

そう聞くと、

「いいえ。何も」

その答えに、感情はなかった。


——不安は、増殖する。


帰宅すると、家は静まり返っていた。

ルナの部屋のドアは閉まり、美幸はリビングで本を読んでいる。

俺が帰っても、顔を上げない。


「ルナは?」

探るように聞く。


「元気よ」

それだけ。


嘘だとわかった。

だが、嘘だと指摘できない。

なぜなら、その嘘は俺を責めるのではなく、“切り離す”ためのものだからだ。


その夜、ルナの部屋の前で足を止める。

ノックしようとして、やめた。

仮に部屋に入れて貰ったとして、何を話す? 何を謝る?

俺は、自分の罪を言語化できなかった。


翌日、社内で一つの報告が上がった。


匿名の内部通報。

内容は、事実だけを淡々と並べたものだった。


規定違反。ガバナンス上の問題。

“恋愛”という言葉は、一切使われていない。


だが、誰のことかは明白だった。

俺は、その書類を握り潰しそうになった。


誰が?

なぜ今?


そのとき、脳裏に浮かんだのは——美幸の顔だった。


感情を見せない、あの静かな目。


否定した。

あいつが、そんなことをするはずがない。

家庭を守るために、俺を支えてきた女性だ。


だが同時に、理解してした。

彼女は、感情で動かない。

だからこそ、最も危険なのだと。


その夜、美幸は言った。

「ねえ、あなた。私たち、少し距離を置きません?あなたのためにいいと思うの」


声は穏やかだった。

相談の形だが、決定事項だった。


「どういう意味だ?」

俺は、初めて声を荒げた。


美幸は、ようやくこちらを見た。

その目には、怒りも悲しみもなかった。


「あなたが思っているより、もう終わっているのよ」

その瞬間、理解した。


俺は、裁かれているのではない。

もう——見限られている。


怒鳴られない。責められない。

説明の機会すら与えられない。


それは、罰としてはあまりにも冷酷だった。


人は、憎まれているうちは、まだ存在を認められている。

だが、無関心は違う。


美幸とルナの世界から、

俺は静かに。しかし確実に”削除”され始めていた。

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